「ブックカバーをおかけしますか」
と訊かれて、すぐに答えられた試しがない。
その一瞬の間、その逡巡についてのこと
東京に滞在するときは
現地の本屋で質量のかるい本を買って
ひとりで夜食事する、ダラダラ読む。呑む。
いまでも憶えているのが
ある店で、ブックカバーを断ったこの本を読んでいたら店員の男性が、表紙を見るなり「あ、」と言って
にっこり「ウルフ」
つづけて「、考えますよね」
と言って空いたグラスに水を注いでくれました。
「あ、ウルフ、考えますよね」
わたしの半径3m周辺にはヴァージニア・ウルフを知っている人もいなければ、気さくにウルフと呼ぶ人もおりませんし、わたしも彼女について話すことがないのでそんな敬称で呼んだこともありません。
しかも、「考えさせられます」ではなく「考えます」と言ったのだ、
日頃、その2つの言葉にはすこし離れた距離がある(と思っている)
後者、いわば彼の発言は
読む行為に対してじぶんの意欲が前のめりな感じがする。
そして、わたしはその発言で
詰まっていた鼻が通ったように息ができました。
そんなに年齢差がないであろう彼がヴァージニア・ウルフを熟読されているとは、、!
ヴァージニア・ウルフと二人三脚してたら、急にバトン渡すメンバーが出現して、3人でぐるぐる走っている感覚です。
なぜこんなに感銘を受けているかというのは
ヴァージニア・ウルフの本を読んだらわかります。
彼女は、よく倫理観、フェミニズム批評などの本で題材にされやすく、実際に彼女の本では「家庭の天使」という表現で、家庭内で妻や母の役割を果たす女性を褒め称える言葉であると同時に、女性が自分で考えて行動をしようとする時にのしかかってくる社会的抑圧を常に感じさせます。
わたしはその店員、彼のことを
生物学的に男性(そう見えた)と捉え、
もしかしたら実際のところは
その主観も見当違いなのかもしれませんが、
ヴァージニア・ウルフは
男性中心主義の時代背景と、それによって女性たちの抑圧された社会的立場について自分の感じたままに書かれているし、
そして”考えさせられる”という受動的なスタンスより踏み込んだ、
“考える”という主体性、
店員の彼が、
生物学的に男性という性で生まれてきた人(であるとすると)
自分の性が歩んできた時代背景を知る、
そしてそれが人道的なこととは言えないと訴る女性の葛藤について知り、そして考える。
もちろん、男性には男性なりの、女性たちに対する葛藤や抑圧されることへの不満もあるでしょう。(日頃から)
そもそも、性別への疑問もたくさん浮き彫りになりつつある現代。
しかし男女という社会的立場や時代は今よりももっと
そもそも女性たちの方が圧倒的に自分の考えを述べる、述べてもいいという自由が、選択がなかった、という男性中心主義の痛さ(客観的)と、
それによる女性たちの痛さ(精神的、物理的)を
同性みずから読んで考えるのだから
彼の柔軟な知性と勇気(なんだか上からの物言いにきこえるかもしれないが、男性中心主義という歴史的恥とそれに対する女性の犠牲に、同性として自ら向き合うのだからそれは勇気以外になんと云おう)、
しいては都会の人口の多さと
そしてわたくしの未熟な固定概念の割れよう。
いろんな人がいるね、、、
と一言で済ませたくない稀有なきっかけ。
わたしにとってブックカバーをかけなかったことは
うれしい誤算でありました。
ということを
毎回ブックカバーをかけるか否かという問いと同時に
必ず思い出しては
どうしようかと迷うので
店員さんはすこし目を細めるか、
見開いてわたしの顔を凝視するかのどちらかになる。
ブックカバーをかける意味や意図もあるように、
かけないことで得られる体験もあるみたいです
自分ひとりの部屋 ヴァージニア ウルフ (著)
出版社 : 平凡社 (2015/8/25)
発売日 : 2015/8/25
言語 : 日本語
文庫 : 269ページ
