December,2022
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子犬の成長過程に、誰も批評できない。
田中功起「質問する」
という、キュレーターや作家、批評家と交わした往復書簡の本で
もちろん美術関連の対談をされているのだけど、私にとって普段考えていることと通づる、というか、人の意識や物事
の見方についての疑問を解消してくれたり、膝を打ったりより深く考えることができた学びの一冊なので、
それがどんな具合なのか、を文字にしてみようと思います。
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「展覧会」と「作品の成立」についてのそれぞれの立場と条件などについて
成相肇さんと話をしている田中さんの文章。
(中略)
成功と失敗のない世界。
「展覧会」にも「作品」にも評価基準が適応されます。
「作る」と言う行為そのものに対しては、簡単には「良し悪し」を判断できない。
作ったものは評価にさらされる。けど、作っている行為自体に対しては実はそれほどには判断が下されない。作り途中
の作品に対しては最終的な判断を保留してしまうように。作り途中の作品に対しては最終的な判断を保留してしまうよ
うに。「行為」そのものはいわば評価の外側にある。
(中略)
「成功と失敗のない世界」は、「作品の成立」以前の中にあるはず。つまり、行為の次元にあるんだと思います。
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この、「作品」というのを私は「人間」というふうに置き換えても同じなように感じました。
人も常に「成立」しない。
人間という「行為」そのものは、行為の次元に位置し、だから評価の外側にある。
では、人という「行為」の次元とはどこなのだろう。
いくつだったか憶えていないですが、
コナンドイル著シャーロック・ホームズ1作目の「緋色の研究」を初めて読んだときに
ワトソン博士がホームズの家に初めて来た時、
ホームズがワトソンに「人は見ているけど見てない」セリフをします。
君が上がってきた階段は、全部で何段だったかという質問をして、ワトソンは答えられない、
「見て上がってきたのに、何段かはわからない」
そんなシーンだったと記憶しています。
わたしは、そういうことが日常的にあることを意識していなかったので
衝撃を受けました。
「た、たしかに、、、!」と子供ながらに深くうなづいて、
そして私は私の中にわたしとして自覚していないわたしと、
実際に運転していない「見ているけど見てない」わたし部分が存在することを自覚しました。
おそらく、自覚した「意識」への興味はその時がキッカケだと思います。
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(意識して)見る
(視界に入ってきて)見える、では立場が全然違うし
(意識せず)見えない
(意識しても)見えない
(視界に入ってきても)見えていない も、同様にそれぞれ意識や無意識の置き所が違う。
意識している ということを自覚した時点で自分の置き所のようなものがわかるし、
それが自分という物理的な存在(カラダ)と自分の意識(自覚や意思)を掛け合わせある種、
何者でもない自分になれているかどうかの評価、
そしてこの評価に良し悪しがない、そこにもわたしは、納得する清々しさがあります。
見るという行為をしているということは
観察者であり、鑑賞者の立場になるし
見ない では、非観察者、非鑑賞者という立場が明白であり
そして見えていないでは 干渉すること自体存在していない・
それをそのような役割 と認知するためには、それ以外の立場なのだから
それ以外の立場というのは、何者でもない自分ということで、
わたくしは、その何者でもない自分が必要なのだと思うのです。
それでも、ここには細かな矛盾が多く存在しています。
なぜなら、何者でもない自分が必要と言っても、
それを率先して自ら見つけようとしている意識にあると、立場が固定化してしまうからです。
それは、むしろ何者でもない自分からは、遠回りに感じます。
ただ、他人との関わりが、その立場の切り替えを多く与えてくれます。
これが、自分の意識を種類を増やす、または気づくきっかけとして働いてくれたりします。
この自分の(または自分以外の人間への)意識や立場の曖昧な移行、揺らぎが、
カラダを形作っている気がしています。
矛盾がないはずはない。
そういう矛盾も含んで、しかし実際に何者でもない自分というのは成立するのではないかと期待しています。
全ての出来事や事象は、自分が認識したりすると存在することになる。
自分のカラダで起きていることも、認めると意識の確定的な事実になるし、
カラダでおきていることも気づかない、見えてないと存在していないし、認知されない。
このことは、とても興味深いことだと思います。
治療していて、
患者さんの「ここは意識する、それには気が付かなかった」などの話になってきいたり一緒に考えていると、
いつもテレビのカメラの配置の様子を想像してしまいます。
1カメ、2カメ、3カメ、、
それぞれのカメラを順に顔を向ける、動作。
なんカメまであるんだろう。
この向きで正面を向いている時、他のカメラではこういう角度か、、
未だ存在を気づかれない角度。
映しているどのカメラはその先の視聴者のためのものではなく、
どちらかというと鏡の役割の方が近いかもしれません、
そういう視点の自分がたくさん存在しているという事実と存在していない意識(気づいていない、認めていない自分)
が混沌と入り混じっていることへの場、そのもののなかに、何者でもない自分がいるかもしれないという意味でござい
ます。
その場所自体が、良し悪しで審判されるということから外れるわけだし
自分の中でその空間を存在させることで、
とまで、書いてみたけれど、そこから先は言葉を続けることはないよなぁ
人の「成立」以前の中にある。今現在も行為の次元にあるから。
評価の外側にあるから。
それがとても不確定で、時に苛立ち、未成熟で弱々しく、
それと同時にその場所は開け放たれた自由さで、
素敵なのだと思う。
Momoe Narazaki
:この瞬間に存在するのは自分の写真を見ている私であり、椅子に座っている私であり、
コーヒーの水面に映る私であり、カップの温もりを感じる私であり、
全てが私であると同時に、全ての私は「無意識」だったりする。
