May,2022
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腑におちる瞬間の出どころは、
思ってもみないところにあるということ
たとえば、
患者さまが「腰が痛い」という。カラダを触ってみると明らかに冷えている。
血流をよくする治療を施してから、日常的に温めることを指導する。
夜寝るときに湯たんぽを忍ばせて、腰周りに当てることをお願いする。
次に来店した時に、だいぶラクになったという。
全く痛くなくなったのかと訊くと、まだ少しは痛みがあるという。
湯たんぽは毎日しているのか確認すると、当初よりだいぶよくなったから今はしていないという。
なぜ、まだ痛みが残っているのに、途中でやっていたことをしなくなるのでしょう。
似たようなケースが、とても、たくさんいらっしゃる。
最初は自分のカラダが悲鳴をあげていてどうにもならなくなっているのに
改善の経過を辿っていく中で
一番辛い時と比べて、良くなってきたからというなぜかそこだけ楽観的な判断で
ケアを中途半端にしてしまったりする。
少しの痛みや辛さが、最大級のときと比べてマシだからという理由で。
でも、まだ、少しでも違和感があるのに!
あとは、もうめっきり良くなったからといって、
また元通りにケアをしなくなるという方もいらっしゃる。
「え、もう痛くないんだから良くない?」というのだけれど
温めていたカラダはどう感じていましたかと訊くと
「気持ちよかった」と答える。
気持ちいいのであれば、なぜその感覚を継続したいと思わないのだろう?
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國分功一郎さんという哲学者の本にこういう一節がある。
「わたしは行為をしていても、自分で自分の身体をどう動かしているのか、明瞭に意識しているわけではない。
したがって、どう動かすのかを、明瞭な意識をもって選んでいるわけでもない。
たとえば子どもは、駆けることはできてもジョギングができないことがある。「歩く」と「駆ける」の間にあるジョギ
ングの動作は、ずいぶんと後になって習得されるものだ。しかしひとたびジョギングができるようになると、われわれ
はそれが習得されたものであることを忘れてしまう。歩くをいう行為についても同じことが言えよう。」
(「中動態の世界 意志と責任の考古学」 國分功一郎 著 医学書院出版 より一部抜粋)
この内容を先ほどの腰痛の患者さまにあてはめたとしたら、
最大限の痛みを抱えた状態から脱すると、それを改善したキッカケまで
その人の中でなぜか なかったことに、なりやすいのかもしれない。
自分のカラダの痛みや違和感に対して、
ストレスのない日常を送る為に治療やケアにストイックになることや、
もう同じことが起きないようにしようと生活を見直すこと、
自身のカラダの感覚をより検証してラクになるために探求することを
ただ日常の中で習得してこなかっただけなのかもしれない。
そしてカラダを自身でいかようにも、取り戻せるということ
その経験を獲得することと日常の生活の過ごし方が結びつかない、ということを
気づくことがこの本を読んで感じたわけです。
正直なところ、鍼伮にまつわる近年の本や参考書を読んで膝を叩くほど感動したことがあまりなくて、
逆に
実際に治療していたり、患者さんのカラダを触ったり、話を聞いたりする上で起こるわたしなりの身近な疑問などは、
一見全く関係ないと思われる分野の本から教わったり、腑に落ちたりする。
これが、本当におもしろいのです。
日常の治療やカラダに触れることで生まれる疑問や謎も、まったく違う分野から得られたヒントをここでまた紹介していこうと思います。
Momoe Narazaki
:今の自分自身がどうしてこのような形で立っているのか、言い換えれば、
どういう動作/考え/気持ちがあって一秒前の自分が一秒後の自分になっているのか。
それぞれの瞬間に見えてない自分(意識していない自分)がいるんだろうな
