• Skip to content

HOME

  • HIMITSU
  • MENU
  • CREATOR
  • COLUMN
  • COLUMN PLAN
  • RESERVATION
  • Back
  • Chou Chia Yu
  • Momoe Narazaki
  • Back
  • RESERVATION GUIDE
  • RESERVATION CALENDAR

ひみ つ

HOME

  • HIMITSU
  • MENU
  • CREATOR
  • COLUMN
    • Chou Chia Yu
    • Momoe Narazaki
  • COLUMN PLAN
  • RESERVATION
    • RESERVATION GUIDE
    • RESERVATION CALENDAR

May,2023

Chou Chia Yu
:when she realized something.

5

映画のワンシーンでスローモーションになる演出を、日常のなかでじぶんに大いに使ってみる

ヒトの脳の大部分を占めている 新皮質 という場所。
この部分によって円滑な人間関係や社会への自己表現に有効で、発達してきた。
一方で
端に追いやられた大脳辺縁系の働き(痛みや快、不快などの本能的な行動)は、
カラダが壊れないようにする基本的で重要な働きでもある。
大脳辺縁系の役割は、
この人間社会で生きる上で個人の感覚でも端に追いやられている感覚だと思う。

なぜなら
痛み、快、不快の感覚は
あまり気にしなかったり、気づかないふりをしたりできなくもないからだ。
甘えや未熟さ、弱さだと自分を責める可能性も、ある。
めまぐるしく生きるのにそれよりも考えなくてはいけないことがあるからと、
誤魔化したり、原因を履き違えたりする。

たとえば
空腹になると怒りっぽくなったり、人に当たったりすることがあるが、
食べ終わったら満腹感によりその前の怒りやイライラはなんだったのか、ということがある。

食欲が満たされていないときは、
大脳辺縁系で不快感が沸き、食欲が満たされると不快感がなくなるので、
その結果、怒りが消失するわけなんだけれど、
普段の理性とは全く矛盾する生理現象の瞬間にたまたま立ち会うと、
根本的なカラダの声が聴けたようで、なんだか嬉しくなる。

本能的な部分というのは、具体的にいうと
痛みや快や不快についてのことで、
それは主にわたくしの店で施術する分野とも言える。

理性ばかりが、つまらない、
というか治療でカラダを触ると、
それだけだといろんな限界を感じてしまう。
今回はそのことについて。

 

欲が満たされると、中脳腹側被蓋野という場所から投射されるニューロンから
ドパミンが放出される。
その快を感じて同時に脳は「その刺激により快感が得られる」と記憶、学習するようになる。
記憶するので、快を求めてその刺激を繰り返すようになる。
そして
日常生活や行動での快感は毎回同じだと減少し、飽きがくる。
つまり、日常生活でのドパミン産生は、慣れによる低下していく。
これが、習慣化、適応、順応していくこととも言える。
ということは、ヒトは習慣化や適応、順応して過ごすほど、
最初の刺激は淘汰されて、感じることを麻痺させてしまう。

 

好物の匂いを嗅いだら、思わず唾液が出る。
食べて美味しいという快感を無意識のうちに記憶したため、
実際食べてなくとも匂いを嗅いだだけで反応してしまうのである。
逆に、嫌いなものを嗅いだら不快になってしまう。これも同じように海馬で記憶している。
この一連の条件反射は、ヒトも動物も同様に大脳辺縁系からはじまる。
これは理性とかの範囲ではなく、ごく当たり前に構造上行われる。

ここの部分を、自分の理性や感情や常識や固定観念などと分けて
そして、
その部分も同じようにヒトの性質として自覚的に受け入れていくのはどうだろう。
日々を新鮮に感じながら、生きていくには、
この刺激と脳で起こるしくみを意識的に有効化するのがいいように思ったりする。

 

;;;;;;;;;;

刺激による快感(または不快)が得られる①
↓
無意識のうちに記憶される②
↓
意識的に
“今この瞬間に自分が快または不快が得られる体験、感覚、表現を得られている“
と認識する③

;;;;;;;;;;

 

①、②は実際に自分の体の中で無条件に起きていることなのだけれど
前半の方で書いたように、
社会では習慣化、適応、順応していく慣れと飽きが一体化していく日々だと仮定すると
③をその日常に組み込むことで、
自分の中からもうひとり俯瞰してその日々起こっている快や不快を捉える自分が生まれる。

その③の自分というのは、
快が発生した時には、その感覚を2度おいしく味わうことができるし、
不快が発生した時は、感情的に不快の気持ちに飲みこまれないような冷静になる命綱だったり、

不快でできた傷を修復するためのクッションにもなりうるのではないか。

 

わたしはよく、その③の状態を“幽体離脱する自分“として表現する。

 

徐々に大人になっていくにつれて、
条件反射のような本能的、衝動的なことがあまり起きなくなった気がする。
原始的だったり動物的だったり、幼児性みたいなところが。
もっとその部分を振り返ったり、見つけることで思い込んでいた自分像が
崩壊していくと、なにかカラダにも気持ちにも周りの景色を見る視点も
変化をもたらすような気がしてる。

 

自分自身のことをわかっていると思うオート状態で過ごす“大人“は
周りに適応、順応して礼儀正しく溶け込み、それが習慣化し、
それが唯一の自分だと知った気になっているだけかもしれない。
それがただ慣れと飽きを含んだ諦観気味な思考からくる
自分の見方のひとつなだけで。

一度、空腹でイライラして
とことん不快になってみるというのもいいのかもしれない。
好きなものを想像して、生唾を飲むのもいい。
そういう自分を観察して「へぇ、、!そうなんだ」と心にメモをとる。
きっとまだまだ知らない自分がいるのではと想像する。

それぞれの人が自身の条件反射を、観察して
どんな表現をするのか、きいてみたい。
本能的で率直な自分の感覚を味わった上での表現こそ、
発達してきた新皮質の部分を持つヒトだけの
混じりけのない特権という気がしている。

© 2026HIMITSU.LLC

x