June,2023
Chou Chia Yu
:She is considering how to respond.
じぶんの脳みそのそれぞれの役割をドレミファソラシドの音階にたとえると、きっとトレモロばかりな気がする
「カラダのここが痛いんです、ずっと」という訴えをするお客さまに
「ずっと?」と訊き返す。
「その部分が痛いと絶え間なく、感じている?」
そうやって
その痛みという訴えから、原因を分析したり、痛みの強弱を測ろうとする質問を投げかけると
「そういえば仕事中は痛くないかも」とか「寝ている時は感じない」とか
しまいには「あんまり憶えてない」とか。
最初に言っていた「ずっと」は意外に、「持続性、連続性のある」意味ではなかったりする。
言葉自体や表現のニュアンスが、そうやって話す側、聞く側によって伸びちぢみするのと、
本来のことばの意味とはかけ離れているけれど、その言葉として表現したという事実自体に、
本人の無意識の意識が組み込まれているところ、そこに親しみと面白さを感じます。
一方で
ことばの意味に忠実になりすぎると、
話の内容自体を正確に伝えることに執着してしまう、と同時に、
言葉の受け取った相手の気持ちへの配慮の面が薄くなることや
相手の話を聞く際に、その話の中身に共感したり、疑問が立ち上ったりして、自分の頭でその話または吟味したりする、
そしてそのように立ち昇る感情と、その話に対する客観性のなさの比率バランスなどを感じたりもするから難しい。
第三者という視点だからこそ生まれるアイロニーや意味のずれはずれ合う意味をともに見渡す地点があって、
はじめてその機能を発揮する。
つまり、じぶんの内側に会話全体を俯瞰する者がいなければならない、と思う。
第三者の視点になるために、まず自分自身の「今、ここ」意識と切り離さないといけない
そのために、自分の客観的感覚に重きを置いて、観察すること
そのためには、自分は言語感覚に比率が傾いているから、
まずそこを逸脱しなくてはいけないと思っている。
つまりは、
思考は凝らし、いかに言語化すること、発語することをせずに、
どうじぶんが、人と対話していくか、というところ。