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ひみ つ

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November,2022

11

おいしいからといって好きとは限らない、と同じように
好き嫌いの篩い分けとその理由より
興味深い、でい続けるじぶんの仕事について

なぜ鍼伮師になろうと思ったか、と訊かれることがたまにあって
いくつかの理由を、その時々で答えるようにしているのですが
そのいくつかの理由に中に、なぜそれが理由なのかよくわからないであろう理由もあるので
ひとつご紹介します。

たとえば、
東洋医学は科学的根拠がまだよくわかっていないが、世界保健機関で認証されていること。
鍼伮師は国家資格であるということ。
質問に対して、この答えだけでは「?」となりますでしょう。

しかしこれは、わたくしにとってとても重要な理由です。
要は、「まだ解明されていない未知の領域なのだけど、よくわかっていないけれど、とりあえず認めなくてはならない
医学」だから、それを「知りたい」と思ったのでした。

事実、未知の領域なのに、そこに国や世界レベルで太鼓判を押しているなんて。
それだけ根拠ど返しにしても認めなくてはいけないくらいの東洋医学の底の深さも魅力的。

そしてまだまだ人類の知らない分野の方がおもしろそう、と思ったわけです。
そして、この職業を志そうと思ったこの動機と選択が、普段から感じている自分の違和感を考えていく出発点とも感じ
ました。

例えば、(全然違う話のようだけれど、)
通常、わたしたちは何かを見たり体験したりしたとき、それが何であるかをほぼ瞬時に判断します。
目の前の物や出来事に対して「コップだ」「りんごだ」などと認識したり
「正しい」「間違っている」などと価値判断したり「古い」「新しい」と分類したりします。

もちろん、私も日々そうやって認識して判断しているのですが、
なんだかいつもその行為のうしろに立ちこめるものがある気がしてならないのです。
それが違和感のようについてまわるのです。
だから、人が目の前の世界や物や出来事を分類したり価値づけしたときには、
そのプロセスや背景に何があるのかを考えたりしますよね。
わたしは、そうやって「なぜそう思ったんだろう?」と考えているときだけが、自由だと感じられるような気がします。

「余計な位置づけやイデオロギーなどにとらわれずに、純粋に世界やものを見る」現象学的還元と言うそうです。

東洋医学という、そもそもの位置づけが曖昧な中で、
でも長年培ってきた歴史を感じられる学問だからこそ、純粋にまっさらな視点で探究できる。

そういう意味で、共通するところがあって惹かれたのかも知れません。

そういえば
むかしから、演劇やドキュメンタリーに惹かれるのも、
芝居と現実、作品と日常、虚像と実像、一瞬と永遠、作り物とそうでないものの間を行き来する体験が
日々固くなって囚われていくわたしの思考を、無重力の空間に放り込んで自由にしてくれる。

究極を言えば、価値基準や道徳、主義主張なども必要なく
行き来することで、静かに、そのものをそのものとしてだけ、在ることを肯定できる。
答えを導きたいわけでも、なにか発明することに意義を感じているわけでもない。

その往来の行為が、わたし個人としてわたしであるために、必要な媒体であるようです。

それと同じく、治療も、
患者さんのカラダに触れ今どんな状態なのか、わたしはその人ではないわけですから、知り得ないわけです。

その人でないのに、その人のカラダを治療するということ。
カラダと精神、自己と他者という行き来。

長年この職業をやっていて、この仕事の生業としての精度ではなく、
ひとりの人間として模索するための職業という方がしっくりくるようになりました。

Momoe Narazaki
:はじまり」も「終わり」もわからない未知のストーリーを辿りながら、
真っ白なページの奥深くに息づく歴史を感じる。その中で新たに紡いでゆく自分自身のページ。

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