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ひみ つ

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himitsu_April

7

July,2022

7

インプットやアウトプットよりもストック
”入力”や”出力”よりもじぶんのたくわえ

自分の中には、
ホンネとタテマエという2つの部屋があって
タテマエという部屋ができたのは、
動物とは違い知能が発達して人間社会を形成しそこで生きていくためのすべ、だと思う。
なるべく気持ちの良い人間関係を保つ上で、すべてホンネをさらけ出すことは
現実的には、きっとなかなか、ない。


何気なく人から言われた一言が、
言った側にそんなつもりがなくとも言われた側の受け取り方次第で
嬉しかったり、悲しかったりする。
その一言が、勇気になったり宝物になったりする。
一方で、ずっとその人の中にずっと残る傷や、縛りや、自身への呪いにもなる。


ただ、最近思うのは、
たとえば、じぶんの気持ちや純粋に感じた気持ちに対して、
こんなことで落ち込んだりするなんて弱い、こんな小さなことで悩むなんて(自己嫌悪)
元はといえばじぶんが撒いた種なのだ、とか
そういうふうに決めたのはじぶんなんだからと言い聞かせたり(自己責任)


もちろん、そういうふうにじぶんに対して厳しくなれる、現状に満足しないという意味では
素晴らしいことだと思う。

ただ、なにと比べて弱いのだろう。
なにが大きい悩みで小さな悩みと決める基準はどこから出てきたのだろう。
自分を悩ませるその要因は、自己を負うことで本当に解消されるのでしょうか。
撒いた種というけれど、決断のその種は
最終的な姿を楽しみしている、そう思い浮かべて決めたことなのでしょうか。

そういう誰かと比べたり、周りに合わせなくてはいけない環境下でじぶんが本当に思ったこと、
もしくは傷ついたことをそういう自己嫌悪や自己責任というもので覆い被せて、
本人が本当はどう感じているのか、ということに気づかないことがあると思う。
そして、気づかない方が、いいということも忙しい毎日を生きていく上で必要なのかもしれない。
そうやって、心の中でそれをうやむやにしていると、それはカラダの歪みやねじれになる。
カラダがいつも、いつだってすべて請け負ってくれている。
周りと比べるという巻尺でいつのまにかぐるぐると自分を絞めている、そんなイメージ。
じぶんが思ったこと、感じたことについて、どこの誰だって塗り替えてはいけないし、
そして、それは、タテマエの部屋にいるあなたでさえ、踏み入れてはいけないはず。
と、そうは言っても、きれいに使い分けるのもむずかしいですものね。

::::::::::::::::::::



さまざまな価値観の人たちがいることはじぶんの刺激になりいろんな感情が芽生えもする。
そのたくさんの価値観の海を泳ぐ上で、
じぶんの中に生まれたじぶんだけの感情や気持ちそのものをじぶんだけで認めること、
その作業は、ひとりで行うもので、
でもそれを行うことで
はじめてじぶんの中のタテマエの部屋とホンネの部屋をちゃんと見渡せるようになると思う。

見渡せてはじめて、
じぶんの中が思っていたよりも広いじゃん、、と空間を把握でき、
その空間を味わうように自然とおおきく息を吸い、吐ける。


そしてそこの空間の場所も広さも、どう感じたかも、だれかに開示しなくてもいいのだと思う。

Momoe Narazaki
:ホンネの部屋で落ち込む私を横目に、タテマエの部屋の私は明るく振る舞う。壁を通して声は聞こえるけれど、コミュニケーションが上手くいかない。ホンネの私もタテマエの私も、同じ私のはずなのに。

himitsu_April

6

May,2022

6

わたしという、国

人間と共鳴する機械にのってそれを操縦しながら、
なにかと闘うロボット系アニメ

記憶では、
序盤の回で、主人公が操縦する機体とうまく動かすことができずに
暴走したり、動かなくなるシーンがけっこうな確率で、ある。
「なんで動いてくれないんだ、、!」みたいなセリフや、今まで聞こえていた声が聞こえないとか、そういう。
そして、それはなにかと原因がある。
主人公が自暴自棄になったり、病んだり、目的を見失ったりしている時が大体である。
機体からしたら、「その精神状態なら動かされたくないよね、、」と観ている第三者側は思う。
だから機体は辛抱強く待つのだ。
主人公が本来の自分を取り戻してくれるのを。健気すぎる。


わたしたちも、似ている。
この場合の主人公は、じぶんという意識のことで
カラダという機体、入れ物にはいって操縦している。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


わたしたちは生きていくために、ふだん物流がないと必要なものが得られない。
住まいの材料も、食べ物も、カラダを清潔に保つのだって、カラダから出た物だって、そのまま置いていることはない。
生きていくことは、常になにか運んでいる。
届けたり、動くことで得られるし、手放すことができる。
全ての物が一箇所で完結できるわけではないから、いろんなものが行き交う。
カラダもその社会の物流に当てはめてみる。

それぞれの場所に栄養を届けたり、
不要なものをリサイクルしたりする動脈や静脈は、
“高速道路“
そこから枝分かれして細かい場所まで届ける毛細血管は、
“一般道“
内蔵につながる中継点で、
目には見えないけど内蔵の状態を表してくれる経絡とツボは、
“地下鉄路線とその路線上の各駅“


頭だったり、内蔵だったり、四肢や、五感を感じる器官など
たくさん詰め込まれているけれど
それ以前に
すべてのカラダの器官や機能は、供給してくれるルート(血流)が
正常に動いていることが条件なのだ。
その場所に届いて、供給されてはじめて機能が活かされる。
そして、そのカラダを操縦しているじぶんという意識は、
自律神経という媒介から、全身の交通網の速さや流れを調整したりする。


わたしという存在は、
1人の人間というのは、
もうそれは、一つの国なのだ。
住み心地はいかがだろうか。
わたしという国は、いま豊かだろうか。


どうしても
自国をより幸せにすることよりも、
外とのつながりに、人は、大事なものが多すぎる。
親や子供、家族、友人、職場、お金や社会、、
じぶんという国を治めるよりも、
優先すべきだと思ってしまう。
とっても大切なものだから、よけいに。


最初のロボット系アニメの話に戻すと、こうも言える。
物語だと、最終的に機体と主人公のシンクロ率は高まって共に成長していく。
わたしという入れ物と、わたしという意識の共鳴はどのくらい進んでいるのだろう。
シンクロ率によっては、年齢を重ねて機能が落ちたとしても
わたしという国としての成熟度と豊かさは上がると思うのです。


そして、そのシンクロ率を高めるには
*外とのつながりや関係性から、自身の優先順位に疑問を思ったとき(外と内)
ex
「なんとなくやってたけど、これ本当にわたししかできないことかしら」
「こういうふうにまわりから求められてきたけど、本当はこの役回りはしたくないな」
「雰囲気的には、本当にこういう立ち回りしなきゃいけないのかな」
*今のじぶんの中の物流に影響はないか、ちゃんと滞りなく届け物を運べているか(起点と終点)
ex
「きのう寝不足だったから朝手足がだるいし冷えてるかも、腰にホッカイロつけておこう」
「今日は緊張して呼吸が浅いかんじがしたから、夜はゆっくりお風呂に入ろう」
「胃が重たいから消化機能が落ちてるのかな、あたたかい優しいものを食べよう」
どこからをきっかけにしてもいい。
間接的に立ち止まることを教えてくれることが多いように思う。

なにより、
わたしという入れ物は、いつまでも、健気にそれを待っている。
辛抱強く、いまのわたしを受け入れながら、待ってくれている。

Momoe Narazaki
:自分自身なのに、自分の体がどんなふうに機能しているのか、正直全然わからない。自分の中のいろんなシステムが毎秒毎分うまいこと流れを作ってこの心臓が、この手が、この頭が動いている。そのシステムがどこかで小さな事故を起こしたり故障をしていても、気がつかないことがほとんどかもしれない。毎日一生懸命機能している自分のために、もっといたわってあげないと、と思ったりする。

himitsu_April

5

May,2022

5

腑におちる瞬間の出どころは、

思ってもみないところにあるということ

たとえば、


患者さまが「腰が痛い」という。カラダを触ってみると明らかに冷えている。
血流をよくする治療を施してから、日常的に温めることを指導する。
夜寝るときに湯たんぽを忍ばせて、腰周りに当てることをお願いする。
次に来店した時に、だいぶラクになったという。
全く痛くなくなったのかと訊くと、まだ少しは痛みがあるという。
湯たんぽは毎日しているのか確認すると、当初よりだいぶよくなったから今はしていないという。
なぜ、まだ痛みが残っているのに、途中でやっていたことをしなくなるのでしょう。
似たようなケースが、とても、たくさんいらっしゃる。


最初は自分のカラダが悲鳴をあげていてどうにもならなくなっているのに
改善の経過を辿っていく中で
一番辛い時と比べて、良くなってきたからというなぜかそこだけ楽観的な判断で
ケアを中途半端にしてしまったりする。
少しの痛みや辛さが、最大級のときと比べてマシだからという理由で。
でも、まだ、少しでも違和感があるのに!


あとは、もうめっきり良くなったからといって、
また元通りにケアをしなくなるという方もいらっしゃる。
「え、もう痛くないんだから良くない?」というのだけれど
温めていたカラダはどう感じていましたかと訊くと
「気持ちよかった」と答える。


気持ちいいのであれば、なぜその感覚を継続したいと思わないのだろう?


:::::::::::::::::::::::::::::


國分功一郎さんという哲学者の本にこういう一節がある。


「わたしは行為をしていても、自分で自分の身体をどう動かしているのか、明瞭に意識しているわけではない。
したがって、どう動かすのかを、明瞭な意識をもって選んでいるわけでもない。
たとえば子どもは、駆けることはできてもジョギングができないことがある。「歩く」と「駆ける」の間にあるジョギ
ングの動作は、ずいぶんと後になって習得されるものだ。しかしひとたびジョギングができるようになると、われわれ
はそれが習得されたものであることを忘れてしまう。歩くをいう行為についても同じことが言えよう。」
(「中動態の世界 意志と責任の考古学」 國分功一郎 著 医学書院出版 より一部抜粋)


この内容を先ほどの腰痛の患者さまにあてはめたとしたら、
最大限の痛みを抱えた状態から脱すると、それを改善したキッカケまで
その人の中でなぜか なかったことに、なりやすいのかもしれない。


自分のカラダの痛みや違和感に対して、
ストレスのない日常を送る為に治療やケアにストイックになることや、
もう同じことが起きないようにしようと生活を見直すこと、
自身のカラダの感覚をより検証してラクになるために探求することを
ただ日常の中で習得してこなかっただけなのかもしれない。
そしてカラダを自身でいかようにも、取り戻せるということ
その経験を獲得することと日常の生活の過ごし方が結びつかない、ということを
気づくことがこの本を読んで感じたわけです。


正直なところ、鍼伮にまつわる近年の本や参考書を読んで膝を叩くほど感動したことがあまりなくて、
逆に
実際に治療していたり、患者さんのカラダを触ったり、話を聞いたりする上で起こるわたしなりの身近な疑問などは、
一見全く関係ないと思われる分野の本から教わったり、腑に落ちたりする。
これが、本当におもしろいのです。

日常の治療やカラダに触れることで生まれる疑問や謎も、まったく違う分野から得られたヒントをここでまた紹介していこうと思います。

Momoe Narazaki
:今の自分自身がどうしてこのような形で立っているのか、言い換えれば、
どういう動作/考え/気持ちがあって一秒前の自分が一秒後の自分になっているのか。
それぞれの瞬間に見えてない自分(意識していない自分)がいるんだろうな

himitsu_April

4

April,2022

himitsu_April

4

治療において、
相互はするけれど
比例はなかなかすぐはしない

Q(治療していく上で)
ここに来た人が、どんなふうになっていくのがいいのだろう?

A (わたしサイド)
常にその問いのボールを自分に投げては、跳ね返って戻ってきて 確かめて
また投げては を 繰り返す
その行き来を
はたまたすこし遠くから眺めては、スローモーションで切り取り、
そのボール自体も少しずつカタチを作っていく作業を繰り返す

B(相手サイド)
その人自身の不調症状が減ったり、はたまた改善する中でもっと根っこに隠れていた症状が現れたり、急に良くなったと思えばすぐに戻ってしまったりを繰り返す
その行き来を
日常的に体感することで、自身のカラダを俯瞰する習慣がつき、
それぞれ途切れていたカラダ感覚と意識の回路がつながっていく過程


Aは、わたし個人の治療に対する意識をことばにしてみた。
正直、イメージをそのまま言語化しているので抽象的。

Bは、治療受ける人の治療過程をことばにしてみた。
こちらの方がまだ伝わりやすいかもしれないし、実際に治療の際に直接伝えていることば。

でもAとBは、同じプロセスで行われていて治療する上でとても相互する。
Aで治療して、Bで戻ってきて、またAで確かめてのキャッチボールになる。

鍼灸治療は、東洋医学に基づいて行われる治療法なのですが
東洋医学自体、まだあまり良く知らない、なんか怪しいという方もいらっしゃる。

「気」を扱うものは、術者の「感覚」在りきで話されることが多いのだけど
そういうことばにならないこと=「感覚」でごまかしたくない。
言葉やカラダの実感を得てその方の腑にちゃんと落ち着くために
ことばにならない感覚を、なるべくことばにしていきたいと、思うのです。

Momoe Narazaki
:公園という公共の場で、遊具や遊びを通して人々が(自分自身もしくは他者)が色々な形でコミュニケーションをとっている様子

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