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himitsu_April

5 – Chou Chia Yu

May,2023

Chou Chia Yu
:when she realized something.

5

映画のワンシーンでスローモーションになる演出を、日常のなかでじぶんに大いに使ってみる

ヒトの脳の大部分を占めている 新皮質 という場所。
この部分によって円滑な人間関係や社会への自己表現に有効で、発達してきた。
一方で
端に追いやられた大脳辺縁系の働き(痛みや快、不快などの本能的な行動)は、
カラダが壊れないようにする基本的で重要な働きでもある。
大脳辺縁系の役割は、
この人間社会で生きる上で個人の感覚でも端に追いやられている感覚だと思う。

なぜなら
痛み、快、不快の感覚は
あまり気にしなかったり、気づかないふりをしたりできなくもないからだ。
甘えや未熟さ、弱さだと自分を責める可能性も、ある。
めまぐるしく生きるのにそれよりも考えなくてはいけないことがあるからと、
誤魔化したり、原因を履き違えたりする。

たとえば
空腹になると怒りっぽくなったり、人に当たったりすることがあるが、
食べ終わったら満腹感によりその前の怒りやイライラはなんだったのか、ということがある。

食欲が満たされていないときは、
大脳辺縁系で不快感が沸き、食欲が満たされると不快感がなくなるので、
その結果、怒りが消失するわけなんだけれど、
普段の理性とは全く矛盾する生理現象の瞬間にたまたま立ち会うと、
根本的なカラダの声が聴けたようで、なんだか嬉しくなる。

本能的な部分というのは、具体的にいうと
痛みや快や不快についてのことで、
それは主にわたくしの店で施術する分野とも言える。

理性ばかりが、つまらない、
というか治療でカラダを触ると、
それだけだといろんな限界を感じてしまう。
今回はそのことについて。

 

欲が満たされると、中脳腹側被蓋野という場所から投射されるニューロンから
ドパミンが放出される。
その快を感じて同時に脳は「その刺激により快感が得られる」と記憶、学習するようになる。
記憶するので、快を求めてその刺激を繰り返すようになる。
そして
日常生活や行動での快感は毎回同じだと減少し、飽きがくる。
つまり、日常生活でのドパミン産生は、慣れによる低下していく。
これが、習慣化、適応、順応していくこととも言える。
ということは、ヒトは習慣化や適応、順応して過ごすほど、
最初の刺激は淘汰されて、感じることを麻痺させてしまう。

 

好物の匂いを嗅いだら、思わず唾液が出る。
食べて美味しいという快感を無意識のうちに記憶したため、
実際食べてなくとも匂いを嗅いだだけで反応してしまうのである。
逆に、嫌いなものを嗅いだら不快になってしまう。これも同じように海馬で記憶している。
この一連の条件反射は、ヒトも動物も同様に大脳辺縁系からはじまる。
これは理性とかの範囲ではなく、ごく当たり前に構造上行われる。

ここの部分を、自分の理性や感情や常識や固定観念などと分けて
そして、
その部分も同じようにヒトの性質として自覚的に受け入れていくのはどうだろう。
日々を新鮮に感じながら、生きていくには、
この刺激と脳で起こるしくみを意識的に有効化するのがいいように思ったりする。

 

;;;;;;;;;;

刺激による快感(または不快)が得られる①
↓
無意識のうちに記憶される②
↓
意識的に
“今この瞬間に自分が快または不快が得られる体験、感覚、表現を得られている“
と認識する③

;;;;;;;;;;

 

①、②は実際に自分の体の中で無条件に起きていることなのだけれど
前半の方で書いたように、
社会では習慣化、適応、順応していく慣れと飽きが一体化していく日々だと仮定すると
③をその日常に組み込むことで、
自分の中からもうひとり俯瞰してその日々起こっている快や不快を捉える自分が生まれる。

その③の自分というのは、
快が発生した時には、その感覚を2度おいしく味わうことができるし、
不快が発生した時は、感情的に不快の気持ちに飲みこまれないような冷静になる命綱だったり、

不快でできた傷を修復するためのクッションにもなりうるのではないか。

 

わたしはよく、その③の状態を“幽体離脱する自分“として表現する。

 

徐々に大人になっていくにつれて、
条件反射のような本能的、衝動的なことがあまり起きなくなった気がする。
原始的だったり動物的だったり、幼児性みたいなところが。
もっとその部分を振り返ったり、見つけることで思い込んでいた自分像が
崩壊していくと、なにかカラダにも気持ちにも周りの景色を見る視点も
変化をもたらすような気がしてる。

 

自分自身のことをわかっていると思うオート状態で過ごす“大人“は
周りに適応、順応して礼儀正しく溶け込み、それが習慣化し、
それが唯一の自分だと知った気になっているだけかもしれない。
それがただ慣れと飽きを含んだ諦観気味な思考からくる
自分の見方のひとつなだけで。

一度、空腹でイライラして
とことん不快になってみるというのもいいのかもしれない。
好きなものを想像して、生唾を飲むのもいい。
そういう自分を観察して「へぇ、、!そうなんだ」と心にメモをとる。
きっとまだまだ知らない自分がいるのではと想像する。

それぞれの人が自身の条件反射を、観察して
どんな表現をするのか、きいてみたい。
本能的で率直な自分の感覚を味わった上での表現こそ、
発達してきた新皮質の部分を持つヒトだけの
混じりけのない特権という気がしている。

himitsu_April

4 – Chou Chia Yu

April,2023

Chou Chia Yu
:She is sharing her favorite music with him.

4

UFOの入り口に吸い込まれる時に出る輪っかは、
ひかりよりも音で構成されているのかもしれないという、

施術をしている空間には、何かしらの音楽が流れていて
それがピアノだったり、ギターだったり、歌だったりするのだけど
多くのメロディの後ろに、自然音も一緒に流れていて
鳥の囀りや水の流れ、かえるやきつねの鳴き声や風の震え、雨音も一緒に録音されているものが多い。

だから、お客様がふいに
あれ、今雨降ってる?とか 鳥が近くにいるのかな と訊いてきたりする。
お客様の耳は、無意識にちゃんと曲の、人工的な音とその自然音を聴き分けていること
それは、そもそもその自然音が曲を構成しているとは思っていないということにあるのだとは思うけれど
それが、録音された曲の中の自然音なのか、今現在の空間の外で起きている自然音なのかを判断することは、施術を受けている比較的視覚を遮断している状態だからなおさら、難しいということなのだと思う。

どうしてそういう音楽にしているのかと訊かれたら、今どこにいるかわからなくなってくるという耳と感覚のズレがなんとなく体にとっていい気がする、としか言えない。
ただ、最近その理由らしきことを見つけた。
そういう音が、ときおり私たちの会話に入り込む瞬間がある。
BGMとしてではなく、会話のマイクを握る、というそのままの意味で。
話している最中、たまたま流れている曲だったり、その音のワンフレーズが返事を返して会話が進行する時がある。

なんだか変な話なのだけど、本当にあることで
それは自然音だったり、誰かの歌声だったり、楽器の音にしても、
相手が話したことに返答したように聴こえる、声のようなもので。
私はその時声を発していないのだけど、その曲の声が先に言葉を放ったように会話が続くのだ。相手もなんの違和感は感じずに。

その場にいる中で発言権を失ったわたしだけが、その続いている会話のテンポに一瞬気後れするけれど、それがその場に一番適切なぴたりとした心地よさを同時に感じる。

投げかけた言葉が、音楽の音で返ってくる、
それを言葉として声として、相手は受け取っている。
相手がどう聞こえたのかはわからない、けれど滞りなく成立している。

こうして文章にしてみると、不可解ではあるのだけど
実際にはっきりとその一刻が思い出せる。

いつもその時
呆然と、恍惚に
気後れした私が取り残された一瞬に
みんな溶けた と言葉だけがあたまに浮かぶ。
その場の境界線が溶けて曖昧になった時に
誰が とか 何が とかではない場になる。
声と、音の境目もなく。

共鳴という言葉は適切とは言えない。
それがどういう化学反応で起こるのか、ただの思い違いか杞憂かは
わからないけれど
音楽なのか、会話なのか、声なのか、音なのか
そういう隔たりさえぼやけて、思念の枠組みをはずされた感覚なのだが
残り香のような違和感がうっすら立ち昇っているだけで、仰々しく感じることはない。

お風呂の中で、お湯を押した方向に放たれると同時にその手の両側からまたお湯の波紋が返ってくるみたいに。
当たり前なのだけど、味わう体感が教えてくれることもあると
音楽によって知る。

そういう理由なのだと思う。わかりにくいかもしれないけれど。

3

March,2023

3

後ろを振り返って眺めていると

続けてみてはじめて知ることにたどり着いて、

続ける意味を、続けることそのものから教わった

このコラムをはじめて、最後のページになった。

改めて、4月からのコラムを読み返してみた。

 

自身の文章の拙さはさておき、それでも稚拙な割にも伝えたいことがあったのだ。

この12回のコラムにおいて、<言葉にならない>ことを言葉にする試みをなるべくしてきた。

言葉自体の可能性も、カラダに関する価値観も、自分の在り方についての問いも、

わたし個人にしては、ささやかかもしれないが小さな挑戦でもあった。

そして、その言葉のやり取りで生み出される、絵という表現。

 

しつこいようだが、

<言葉にならない>を言葉にする試みでこのコラムをやってきて

いろんな出来事がある度に、その中の<言葉にならない>のカケラを拾っては

なるべく言葉として投影を試みた。

この作業はいったいなぜ行いたいと思うのだろう?

続けていくと、どうなるのだろう?

という漠然とした疑問もあり、自分の中でピッタリと疑問の溝にはまる答えもなかったように思う。

ただ、続けていくことに意味があるようにも感じていてこの点については確信めいていた。

そして11回のコラムを読み返して、その疑問とそうさせるわたし自身の動機がわかった気がする。

 

伝えたいこと、というのは、情景なのだ。

自分の中にある情景を構成するピース、それを言葉という媒介によって、伝達する。

だけれど、個々によって言葉自体の解釈や重みが違ったりする。

そのハードルでなかなかおなじ情景を共有できない。

でも、その時に個々の言葉への解釈や咀嚼の仕方を知ることで、その人が生きてきた中でそれが形成されてきたとも知る。

そのこと自体もその人の情景に触れている気がする。

みなそれぞれ生きていて、今の1秒前までも生きてきた。

その人の見てきたものを、その人が<今のその人>で在ることを、知ることも嬉しい。

そして、それがどこかの一片でも交わって

おなじ情景を見ることができて、お互いこう思うんだよ、と話せたら

どんなにいいだろう、と思うのだ。

 

そういう意味では、

<言葉にならないことを言葉にする>=<情景の再現性>ということが

テーマであったと、腑に落ちた上でイラストを見ていると、

また違う見え方ができて面白い。

 

Momoe Narazakaさんのイラストや添えられた文章には、

彼女の人柄が垣間見えて、とても嬉しかった。

直接お会いしたことはないのだけれど、それでもいつも返してくれるものが

きっと目を凝らして言葉を見つけ、ゆっくり噛み締め出力してくれたのであろうとわかるものでした。

改めて見返して、絵というのは、表現方法として縛りや垣根がなく自由を自身で見つけられる場所でもあることを感じて、そのことが私自身を楽しませてくれているのだな、とも。

イラストレーターとしての技術の高さ、そして何より彼女の深い理解にも。

更新がスロースロー、、、でしたが

みなさま、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

Momoe Narazaki:
後をついてくる自分と、先を行く自分。晴れの日はそこにいたのに、雨の日にはいなかった。
そこにいるけど、そこにはいない自分。
壮大な宇宙の隅っこで、地球に影を落としているこの小さな身体を、見失わないで。

2

February,2023

2

骨を拾ったら、それが取り戻すことになっていた。

 

このことは、書き留めておこうと思う。

 

 

この間、聞いた話で、 自分の誕生日に学校に行かないと決めた子供がおったそうで

せっかくの誕生日なんだから勉強なんてしたくない!という理由ではなく、

 周りの友達にきっと<おめでとう>と言われその際に自分がどんな表情を、 リアクションをとったらいいのか、わからないからだという。

 それで困惑してストレスになるくらいなら、

最初から行かない。 今日が誕生日というイレギュラーな日が過ぎてしまえば回避できる。 ということだそうだ。

 

 

そのエピソードをきいて大概が首をかしげるのだと思う。 

なかには、せっかくみんなに祝福してもらえるのに、 礼儀知らずなと思う人もいるのかもしれない。それも理解できる。

書き留めておこうと思ったことは、 このエピソードの内容自体ではなく 

このエピソードを聞いた瞬間、 わたし自身もいくつかの情景が思い出された、ということだ。

 

 

どれも小さい時の記憶で
1つ目は

 誰かの誕生日会をしている時に、

自分以外の人がその時の主役に<おめでとう>と言いながら、その人のためにプレゼ ントを渡す瞬間。

 


2つ目は

 空港や駅のホームで、

誰かが見送りに来ていて旅立つ人の後ろ姿に向かって<また来てね>や<気をつけてね>と言いな がら手を振っているその、手。

 

 

どちらも、それが知っている人でも知らない人だろうと

その瞬間に立ち会うと涙が出てきて、見えている景色がいつも滲むのでした。

 

いつも子供ながら、悲しくはないのにどうしてだろうと漠然と思い

 しかし周りを見渡してはおんなじ様子の人は見当たらないし

 何より、自分の意思とは関係なくとも、それは流れてくる。

 

そしてその場で素直に涙を出すことは周りを困惑させることがなんとなくわかっていたから 

その意味を考える暇もなく、それを気づかれないように隠していた気がする。

 そういえば、誰かの誕生日のプレゼント渡しの時は、必ず途中でトイレに行ってはトイレットペーパーで目を拭いてい た。

 

今思い出してみると、どちらの涙も、

自身の発生場所、出所は一緒なことがただ、わかる。

 そして、そのエピソードを、記憶を 今まですっかりきれいさっぱり、忘れていた。

 

 

そのことを思い出すきっかけになったということは、 私は、自分の誕生日に登校拒否した子供にとても共感したのだと思う。

 私はその子と同じように行動をとらないと思うけれど、そういう気持ちになる出所を わたしも知っている。

忘れていたけれど、思い出した、取り戻したと言ってもいい。

 

これは、わたしだけではなく、 みんな少なからず、それぞれあったのではないかなとも思う。

小さい頃に、 なんの根拠も、なんの理屈もなく、 そもそも<言葉>としてまだ形成されていない、形容できない気持ち。

 

 

生きていく上で、

周りを見渡して あぁこういうふうにするのがきっといいんだ、と学習し 

そういう<言葉>や説明ができないものは、自然と厄介でしかなく その気持ちを持てば持つほど、自分の負担になる。

 だから、自然に手放していく。捨てて、なかったことにする。


簡単なのだ、 だって自分でも形容できない、形が定まらずに置き場に困った感覚であるから。 

伝え方も知らず、誰かに共有もされず、記憶にも残せない。

 

 

わたしは、たまたま その捨てていた記憶を思い出した。

 それが今なら、自分にとって大切なものだったと気づくことができる。

 自分から手放したとはいえ、幼い自分のそれは社会に適応するために捨てたのだと思う。 

それ以外、思いつかなかったのだと思う。

それをまた、取り戻せた。 それは私がわたしであるための、だいじな骨、

 

 

 

 

だから結局、とか その後それによって、とかはなく

 

ただ、そういう骨を今までずっと土に埋めていて、偶然拾うことができて それを抱きしめられた。

もどってきてくれて、うれしい。 と骨に話しかけることはできるようになったのだ。

Momoe Narazaki
:無くしたことすら忘れていたのに。別に探していたわけでもないのに。偶然なのか必然なのか、懐かしくて新しい出会い。見つけてくれてありがとう。

1

January,2023

1

強敵がいつの間にか、何か自分の心臓を手づかみで持っていて
いつでもお前を倒せるんだぜという描写があったりするけど、
やっぱり心臓とかだよね
このお前の心を、みたいに目に見えないものは掴まないのですよねと思う

 

今年のテーマは何にする? のようなことをお客様と話していて 自分は、なんだろうと考えた


ぽんと思いついたのは
矛盾 ということで、

 

 

昨年末から、 そういう物事や人の行動、考えについての無意識の矛盾について考えさせられることが多くあった気がする。 

それは、矛盾がどうして発生するか、とかその矛盾点をどうするか、ということではなくて

 無意識の矛盾というのは、自然発生的に出てくるものだと認識をあらためて知りたい というものです。 できれば、体感的に。

 

 

そういえば たまに、血肉にして という表現を会話の中で使ったりするけれど 血と肉、なのだからすごい言葉ですよね

 水 とか 気とかだと、なんとなく薄そうだから、除外されたのかしら。 刻み込まれてる感ないもんね。

 

 

ところで

 思い込みが強い ということも 見方を変えると、ラクなのではないかと思う。 

選択肢の余地もなく自動的に選択できるのだから。

 でもそれは自身で選択したわけではない、本当の意味で。 だから、結果的にはラクではない。

 

その、最初のラク と結果的な非ラク の間には オブラートみたいな膜が一層あって、

それが今年のテーマ;矛盾の キーワードにもなるような気がしている

そのオブラートの形態に入り込むことが、先ほど言った 体感する感覚に近い。

 

 

同じ言葉を言うにしても、
早口や甲高い声色や、ボソボソしたり息切れ気味に言ったり 全然違う印象に捉えられる。


それって、言葉、言語というある即物的な事実なのに 音や間合いや空気感、その話す人の状態が言葉にかぶさる、

くっついて出力することで 観念的な言葉になる。


そこには、相反する考えがセットになる。 磁石のN極とS極が一緒になっているみたいに。

 薄くくっついていられる接着剤のようなオブラートが間にいるように感じる。

 

 

当たり前のことをあえて、

言語化して細かく割いて話をしているようにも感じるかもしれないけれど、 

その作業で、一つ一つの事柄がもっと小さな一つが集まっていて

それがそれぞれ矛盾しているけれど全体的にはカタチになっていることにいちいち、感動してしまう。

そういうことってありませんか

 

矛盾していることが当たり前すぎるのだ、と頭ではなく、そのオブラートの中で感じたい。 

オブラートが、食べ物であってもなくてもいいのだけど、 

隔たりではなく、間に薄く挟まっていてどちらのものの色を吸収、反射できる その捉えづらい、

姿としては存在していないもの、ことの部分を即物的な事実として、存在を確認したい。 

存在 として扱うには、認識して、言葉として表現し、言語化して伝わる伝え方をしなければいけない。 

むずかしいでしょう、そしてたのしみ。←これは矛盾しないですね。

 

 

1→2するのは簡単、0→1を生み出すのはむずかしいというけれど、
そこではなく 0の中身はほんとに0なのか、もしくは→の中には何かがあるかもしれない、の話。

 

 そろそろ、思考の昇降方式には飽きてきているのだと思う。

Momoe Narazaki
:まだ幼い自分の子供を眺めていると、自分がこの世に「生」を産み出したと同時に「死」を産み出したんだという矛盾にかられる。この肉体は毎日生きながら確実に死に向かっているという事実に、時々、言葉では表現できない感情でいっぱいになる。

12

December,2022

12

子犬の成長過程に、誰も批評できない。

田中功起「質問する」
という、キュレーターや作家、批評家と交わした往復書簡の本で
もちろん美術関連の対談をされているのだけど、私にとって普段考えていることと通づる、というか、人の意識や物事
の見方についての疑問を解消してくれたり、膝を打ったりより深く考えることができた学びの一冊なので、
それがどんな具合なのか、を文字にしてみようと思います。

=================================

「展覧会」と「作品の成立」についてのそれぞれの立場と条件などについて
成相肇さんと話をしている田中さんの文章。

(中略)

成功と失敗のない世界。

「展覧会」にも「作品」にも評価基準が適応されます。
「作る」と言う行為そのものに対しては、簡単には「良し悪し」を判断できない。
作ったものは評価にさらされる。けど、作っている行為自体に対しては実はそれほどには判断が下されない。作り途中
の作品に対しては最終的な判断を保留してしまうように。作り途中の作品に対しては最終的な判断を保留してしまうよ
うに。「行為」そのものはいわば評価の外側にある。

(中略)

「成功と失敗のない世界」は、「作品の成立」以前の中にあるはず。つまり、行為の次元にあるんだと思います。

==================================

この、「作品」というのを私は「人間」というふうに置き換えても同じなように感じました。
人も常に「成立」しない。
人間という「行為」そのものは、行為の次元に位置し、だから評価の外側にある。
では、人という「行為」の次元とはどこなのだろう。
いくつだったか憶えていないですが、
コナンドイル著シャーロック・ホームズ1作目の「緋色の研究」を初めて読んだときに
ワトソン博士がホームズの家に初めて来た時、
ホームズがワトソンに「人は見ているけど見てない」セリフをします。
君が上がってきた階段は、全部で何段だったかという質問をして、ワトソンは答えられない、
「見て上がってきたのに、何段かはわからない」
そんなシーンだったと記憶しています。
わたしは、そういうことが日常的にあることを意識していなかったので
衝撃を受けました。

「た、たしかに、、、!」と子供ながらに深くうなづいて、
そして私は私の中にわたしとして自覚していないわたしと、
実際に運転していない「見ているけど見てない」わたし部分が存在することを自覚しました。
おそらく、自覚した「意識」への興味はその時がキッカケだと思います。

====================================

(意識して)見る
(視界に入ってきて)見える、では立場が全然違うし
(意識せず)見えない
(意識しても)見えない
(視界に入ってきても)見えていない も、同様にそれぞれ意識や無意識の置き所が違う。

意識している ということを自覚した時点で自分の置き所のようなものがわかるし、
それが自分という物理的な存在(カラダ)と自分の意識(自覚や意思)を掛け合わせある種、
何者でもない自分になれているかどうかの評価、
そしてこの評価に良し悪しがない、そこにもわたしは、納得する清々しさがあります。

見るという行為をしているということは
観察者であり、鑑賞者の立場になるし
見ない では、非観察者、非鑑賞者という立場が明白であり
そして見えていないでは 干渉すること自体存在していない・
それをそのような役割 と認知するためには、それ以外の立場なのだから
それ以外の立場というのは、何者でもない自分ということで、
わたくしは、その何者でもない自分が必要なのだと思うのです。
それでも、ここには細かな矛盾が多く存在しています。

なぜなら、何者でもない自分が必要と言っても、
それを率先して自ら見つけようとしている意識にあると、立場が固定化してしまうからです。

それは、むしろ何者でもない自分からは、遠回りに感じます。

ただ、他人との関わりが、その立場の切り替えを多く与えてくれます。

これが、自分の意識を種類を増やす、または気づくきっかけとして働いてくれたりします。
この自分の(または自分以外の人間への)意識や立場の曖昧な移行、揺らぎが、
カラダを形作っている気がしています。

矛盾がないはずはない。

そういう矛盾も含んで、しかし実際に何者でもない自分というのは成立するのではないかと期待しています。

全ての出来事や事象は、自分が認識したりすると存在することになる。
自分のカラダで起きていることも、認めると意識の確定的な事実になるし、
カラダでおきていることも気づかない、見えてないと存在していないし、認知されない。

このことは、とても興味深いことだと思います。
治療していて、
患者さんの「ここは意識する、それには気が付かなかった」などの話になってきいたり一緒に考えていると、
いつもテレビのカメラの配置の様子を想像してしまいます。

1カメ、2カメ、3カメ、、
それぞれのカメラを順に顔を向ける、動作。
なんカメまであるんだろう。

この向きで正面を向いている時、他のカメラではこういう角度か、、
未だ存在を気づかれない角度。
映しているどのカメラはその先の視聴者のためのものではなく、
どちらかというと鏡の役割の方が近いかもしれません、
そういう視点の自分がたくさん存在しているという事実と存在していない意識(気づいていない、認めていない自分)
が混沌と入り混じっていることへの場、そのもののなかに、何者でもない自分がいるかもしれないという意味でござい
ます。

その場所自体が、良し悪しで審判されるということから外れるわけだし
自分の中でその空間を存在させることで、
とまで、書いてみたけれど、そこから先は言葉を続けることはないよなぁ
人の「成立」以前の中にある。今現在も行為の次元にあるから。
評価の外側にあるから。

それがとても不確定で、時に苛立ち、未成熟で弱々しく、
それと同時にその場所は開け放たれた自由さで、
素敵なのだと思う。

Momoe Narazaki
:この瞬間に存在するのは自分の写真を見ている私であり、椅子に座っている私であり、
コーヒーの水面に映る私であり、カップの温もりを感じる私であり、
全てが私であると同時に、全ての私は「無意識」だったりする。

11

November,2022

11

おいしいからといって好きとは限らない、と同じように
好き嫌いの篩い分けとその理由より
興味深い、でい続けるじぶんの仕事について

なぜ鍼伮師になろうと思ったか、と訊かれることがたまにあって
いくつかの理由を、その時々で答えるようにしているのですが
そのいくつかの理由に中に、なぜそれが理由なのかよくわからないであろう理由もあるので
ひとつご紹介します。

たとえば、
東洋医学は科学的根拠がまだよくわかっていないが、世界保健機関で認証されていること。
鍼伮師は国家資格であるということ。
質問に対して、この答えだけでは「?」となりますでしょう。

しかしこれは、わたくしにとってとても重要な理由です。
要は、「まだ解明されていない未知の領域なのだけど、よくわかっていないけれど、とりあえず認めなくてはならない
医学」だから、それを「知りたい」と思ったのでした。

事実、未知の領域なのに、そこに国や世界レベルで太鼓判を押しているなんて。
それだけ根拠ど返しにしても認めなくてはいけないくらいの東洋医学の底の深さも魅力的。

そしてまだまだ人類の知らない分野の方がおもしろそう、と思ったわけです。
そして、この職業を志そうと思ったこの動機と選択が、普段から感じている自分の違和感を考えていく出発点とも感じ
ました。

例えば、(全然違う話のようだけれど、)
通常、わたしたちは何かを見たり体験したりしたとき、それが何であるかをほぼ瞬時に判断します。
目の前の物や出来事に対して「コップだ」「りんごだ」などと認識したり
「正しい」「間違っている」などと価値判断したり「古い」「新しい」と分類したりします。

もちろん、私も日々そうやって認識して判断しているのですが、
なんだかいつもその行為のうしろに立ちこめるものがある気がしてならないのです。
それが違和感のようについてまわるのです。
だから、人が目の前の世界や物や出来事を分類したり価値づけしたときには、
そのプロセスや背景に何があるのかを考えたりしますよね。
わたしは、そうやって「なぜそう思ったんだろう?」と考えているときだけが、自由だと感じられるような気がします。

「余計な位置づけやイデオロギーなどにとらわれずに、純粋に世界やものを見る」現象学的還元と言うそうです。

東洋医学という、そもそもの位置づけが曖昧な中で、
でも長年培ってきた歴史を感じられる学問だからこそ、純粋にまっさらな視点で探究できる。

そういう意味で、共通するところがあって惹かれたのかも知れません。

そういえば
むかしから、演劇やドキュメンタリーに惹かれるのも、
芝居と現実、作品と日常、虚像と実像、一瞬と永遠、作り物とそうでないものの間を行き来する体験が
日々固くなって囚われていくわたしの思考を、無重力の空間に放り込んで自由にしてくれる。

究極を言えば、価値基準や道徳、主義主張なども必要なく
行き来することで、静かに、そのものをそのものとしてだけ、在ることを肯定できる。
答えを導きたいわけでも、なにか発明することに意義を感じているわけでもない。

その往来の行為が、わたし個人としてわたしであるために、必要な媒体であるようです。

それと同じく、治療も、
患者さんのカラダに触れ今どんな状態なのか、わたしはその人ではないわけですから、知り得ないわけです。

その人でないのに、その人のカラダを治療するということ。
カラダと精神、自己と他者という行き来。

長年この職業をやっていて、この仕事の生業としての精度ではなく、
ひとりの人間として模索するための職業という方がしっくりくるようになりました。

Momoe Narazaki
:はじまり」も「終わり」もわからない未知のストーリーを辿りながら、
真っ白なページの奥深くに息づく歴史を感じる。その中で新たに紡いでゆく自分自身のページ。

10

August,2022

10

正しさと誤りの間をぐるぐる回れ

つい、

いつもカラダのことについて
説明していると
どうしても話の尺が長くなってしまって、
口を動かしながら、“よく喋るな、、“と自分でも思う。


なるべく簡潔に、そしてわかりやすくを意識して話すのですが
何より、なかった感覚を自覚していただく感じなので
どうしても相手の“あぁなるほど“と腑に落ちていただき

それと同時に、その伱間を空けていただかないと
意味がないもので

「開けゴマ!」 と言うとパカーとドアが開くなんてことはなく

『これこれただいま私が思うに、こういう現状で、それはこう言う過程で原因が考えられ
まして、そのために最終ゴールに向かうための、、今はまずこのドアを開いていただい
て、その後中に入った場合こういう段取りで進めていくんですけれど、、うんぬん、、(こ
れでも略)という次第ですが開けそうですか?
あ、その部分に関しては、こういう角度の考え方だとこうなっていきますが、Aの方がわ
かりやすい?例えば、、』みたいな感じで(長い)


その方のわかりやすさを探るのに、いろんな引き出しを開けてみるわけであります。
いろんな方向で刺さって、どれかひとつでも相手の“理解!“があれば万々歳なのです。
言語学者の金田一秀穂さんのコラムを読んで、今回はこの内容にしようと思いました。

「正しさと誤りの間を、ぐるぐると回れ」以下一部抜粋

「イーロン・マスクにしろ、今の大学生にしろさ。プレゼンとなると、みんな結論から先
に言って、3つに分けて端的に論理的に説明する。何が言いたいか、とってもわかりやす
いですよ。けれど僕が知りたいのはわかりやすい結論じゃない。その結論に至るまでの“思
考のプロセス“なんですよ」

「だから多少わかりにくくても、ダラダラとぐるぐると「わたしはこんな経緯で、こんな
風に考えて、またこうかもしれないと思いもして、いろいろあって、だから、こうなりま
した」と逡巡する。最後にようやく結論にたどり着く。
「だってね、人はことばで考えるんです。ことばにならない得体の知れないものを頭でこ
ねくり回すわけではない。つまり書くこと、ことばにすることこそが、考えることにな
る。ことばはコミュニケーションの道具だと言ったけど、考えるための道具でもあるから
ね」
-XD MAGAZINE vol.05[誤る]   株式会社ブレイド出版 より

よくお客さまに「あなたに関係ない話をよくもまぁこんなに聞いてくれて、、」と恐縮を
したり、驚いておっしゃる方々がいますが

それは、きっとそのお話をしはじめ(か、もしくはその前から)から、
私にとっても“あなた“という存在は始まっているから、
“あなた“が自身の中から外に出した言葉は、
もうすでに“あなた“を構成しているカケラなの
だろうから興味があるし、
知りたいと純粋に思うだけで、
どこも必要でないところなどないと思うので、
そしてその“あなた“の言葉の一粒ひと粒が
折り重なっていくのを
すこし後から追っかけている感じなだけなので、と心の中で思いな
がら

「いえいえいえ」などとよくわからない腑抜けた返しをしてしまいます。

金田一さんのおっしゃることが共感できるのはこの、ダラダラした“思考のプロセス“が私
のスタンダードだからであろうと思います。
そして
わたくしのスタンダードは基本この店の治療スタイルに直結していると思われます。

“思考のプロセス“はきっと、全てがおんなじ人っていないのでしょう。
一部が一緒でも、全てではない。
そういう意味では、オリジナリティそのものが感じられると思います。
カラダも個人差があるし、全く同じカラダはひとつもない。

だからこそ、自分のカラダや心を知って悩んで考え続けそれをことばにしていくことで
思考のプロセスを俯瞰的に実感できる、
治療で“開けゴマ“のような断捨離説明にならないのは
わたしは考える、あなたも考える、それをことばにしあう、そのスタンスが
無意識にすでに治療だからなのかもしれません。

金田一さんの言葉の中で、唯一わたしの考えと一致しなかったのが
「ことばにならない得体の知れないものを頭でこねくり回すわけではない。」というもので

わたしはことばにならない得体の知れないものも、
その存在がなんとなく認識できた時点でおそらくずっとこねくり回していくな、、とも
思っている。という今日この頃でありました。


Momoe Narazaki
:自分自身を表現する方法は百人百様。
あらゆる瞬間に溢れ出る意識していない動きも言葉も全て、大切なプロセスの一部。

9

August,2022

9

じぶんのカラダが言うことをきかないという状態になったことはありますか

だいたいは、カラダの機能がカラダの中身に集中したいときの極みがそれなのだと思う。
そしてそれは、機能を使うということも体力を使うことなのでした。


この前、10 日間くらい寝込んで動けなかったというお客様の話をきいた。
その時にその方がはじめて実感したと強くうなづきながら言っていたのが
「ご飯を食べるって、すごく体力を使う」ということだった
具合も悪い中で栄養を摂るのに、

ご飯を食べるのだけど食べ終わるころにはどっと疲れが襲ってきてまた深く眠る。
それがいつも当たり前にしていることで気づけるのは、すごいと思う。
ある意味、極限の学びでもあったのでしょう、
でも、少なからず、具合が悪い時だけでなくとも
そういうことってありませんか?

ご飯のあと、治療のあとだって
眠くなる、ダルさがきたりする
低気圧が近づくと、満月が近いと、とか
季節の変わり目で、とか。

カラダの中身でなにかがはじめるのと同時に、わたしたちの意識を鈍くさせて省エネをはかる。
だから今そうなっているのね、と自覚して過ごすのと、
知らずに過ごすのとでは、
“自分のカラダとして生きる”ことに雲泥の差があると思う。


もし、カラダが言うことをきかないということがあったら
それは、いいきっかけでもあるのかもしれない。
自分のカラダに首輪をつけている意識に。
今までと同じ動きを当たり前にさせることが、
はたして今後のじぶんのカラダに気持ちいいことなのかしら、と。


具合が悪くなって気づけることもたくさんあるし、それを忍耐の経験とするのではなく
元気なときの自分のカラダの調子がどんな状態か、
具合が悪い時はどんな状態か、
そして回復していく過程の調子はどんなふうに良くなっていくのか、
そういう経験を、自分のカラダでしか実感できないのであるから、肌で憶えていくことが
自分のカラダが必要と求めていることが自然と浮かんでくるはず。と思っている。


そういった感覚のチューニングを繰り返し行うことで
そしてこのチューニングは他人から教わって本当の意味で得られるものではないから
繰り返し地道にやっていくしかありませんー(なんかの教材の宣伝文句みたい、、)

でも、最初のお客さまのように
チューニングの段階でカラダで感じたことや疑問などを話してもらえると
わたくしは、とても嬉しい。

自身と向き合っている瞬間に同席させてもらっている気持ちになる。
そういうことをアウトプット、インプットを繰り返し
体験と体感の引き出しを増やすことで
おのれのカラダのバイブスを見つけることができていくのだと思う。


言葉にならないけれど、確実にそこに存在していることを表現したい気持ちで
ツラツラ毎回書いておりますけれど、
まさかバイブスって単語が出てくるとは自分でも思いませんでした、、

バイブスの意味は以下のとおり、↓
バイブス:
(言葉によらず伝わってくる)雰囲気、心の中、考え方と言ったことを意味する英語。


・・・ぴったりだ!

Momoe Narazaki
:パズルのピースを合わせるように、自分自身に問いかけながらカラダを調整していく。
完成なんてないかもしれないけど、一番心地よいカラダを知っているのは自分だけ。

8

August,2022

8

温かい飲み物をのみながら毛布にくるまる、みたいな孤独について

前回のつづき。

この店を、1対1での施術スタイルにしていて日々よかったと感じることは、
来てくれた人だけの空間になれること、
そして、カラダはゆだねてもらうという状態、その空間で起こるわたしとの距離間、
それを物理的に発生させることができる、それに尽きます。

その人が日常を生きる上で無意識に見ないようにしてきたことや、
考えるのをやめてきたこと、自分でも気づかなかったこと
いろんな話をしている内に
そういうことが思いがけず、なにかの拍子に顔を出す。


話の内容ではなく、そんな瞬間に居合わせると
小さく震えたあたたかいものが、心臓の奥の方でこぼれそうになる。
わたしの中の何かが溢れそうになるその感覚が、泣いている。
同時に
ひとは、だれもが孤独なのだということを感じる。
2人だけの空間で、その人もわたしも、別々の孤独を抱えている、と。
この空間の外にいる人々もそれぞれ、みんな。
その事実がその時、くっきり浮き彫りになる。
外側のいつものじぶんと、いつもは中のすみっこに置かれてるじぶんが顔を合わせた時、
だれでもない、誰かと比べることもできない、じぶんとしか向き合えない瞬間
困惑したり、動揺したりもする。時に億劫にもなる。
でも、その2つのじぶんが重なった状態は、片方でいることよりも
はるかに心強く、何よりあたたかいはずだ。

その重なり合った瞬間を、孤独(じぶん)と認識する時間だと思う。
寂しいことでも悲しいことでもなく、普遍的で、
あたたかくて誇らしいものが、孤独であるとわたしは信じていたい。
じぶんだけの孤独を大切に抱えていること、
人が、こうやって考える生き物であることにおける利点として、その意識を抱えながら生きるいうのが
人間のうつくしさでもある、のではないかしら。
そしてみんなそれぞれの孤独を抱えているからこそ、その事実が“じぶんだけではない“とわかる。
そこに、温度を感じる。


だから、いつもその瞬間に居合わせると、この仕事が、この空間が、
わたしにとって、人への静かな悲しさと愛おしい尊さを同時にしみじみ感じさせるのでした。
じぶんの感じた気持ちに、ほんとうは善悪や正誤もない。
時折、そのシンプルなことを忘れてしまうのだ。


アウトプットすることで、
“つながる“ことや共有することも広がりがあって、共感できたり学べることも多い。
けれど
だれにもおしえていない、ホンネを持っていることは、
だれにも見えない隠し扉から入るようなもので、その部屋自体もじぶんだけしか知らない。
そして、まだまだじぶんの中に隠れた知らない本音が眠っている。
矛盾しているようだけど、薄目で見るくらいのぼんやりしたまぶしさ、
その小さな光をたどって掘っていく、その清々しい背中が。
そういう1人採掘を、すこしづつそれぞれでいっしょに愉しめると、いい。

Momoe Narazaki
:自分の中にある”孤独”に向き合えた時、なんだかホッとする。
誰かの中にある”孤独”に出会えた時、なんだかホッとする。
声にならない声が、外から、内から、聞こえてくる。

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