• Skip to content

HOME

  • HIMITSU
  • MENU
  • CREATOR
  • COLUMN
  • COLUMN PLAN
  • RESERVATION
  • Back
  • Chou Chia Yu
  • Momoe Narazaki
  • Back
  • RESERVATION GUIDE
  • RESERVATION CALENDAR

ひみ つ

HOME

  • HIMITSU
  • MENU
  • CREATOR
  • COLUMN
    • Chou Chia Yu
    • Momoe Narazaki
  • COLUMN PLAN
  • RESERVATION
    • RESERVATION GUIDE
    • RESERVATION CALENDAR
himitsu_April

3 – Chou Chia Yu

March,2024

Chou Chia Yu
:Her stage and her.

3

あたまの中で考えている理想をはるかに越えてくる衝撃って、あたまの、思考の、アップデート感がある

3年前くらいに東京出張でなにげなく入ったカフェで
すごく気になる給仕さんがいた。

動きに無駄がなくて、くるくる動き回る機敏さがあるのに
その人の周りだけ、静かで落ち着いている。

いつもどの職種であれ、人の仕事をしている様を観察してしまう傾向があるのだが
ものすごく感動したのを憶えている。

自分に対しての対応ももちろんだけれど、遠くから見ていて、より恍惚と感動していた。
サービス というと、する側と受ける側という線引きになりがちだが

その人のサービスを見ていると、その境界線が全く意味のないものな気がしてくる。

ここからここまでがこちらの役割で、そこからはあなたの役割だという固定化が人と人の関係
でも自然に無意識に行われていたりするし、そこからどちらかがはみ出したりすると「読めない」
ということになってしまいがち。

そういう固定概念を一掃してくれる人、というよりその人の仕事のあり方、動きによって、
勝手に自分がハッとさせられる。

多くのお客様さまに見られながら、そのお客さんとコミュニケーションをとり、給仕する。
来ていただいたお客さまがその店の主役で、給仕は黒子というポジションも一般的な役割なのか

もしれないが、わたしが出会ったその給仕さんは、完全にその店のキャストだった。

舞台だったら、裏方ではなく、登壇する側の、
物語の中で決して目立つ役ではないにしても、
その舞台全体の質を明らかに上げるポジション。

観る人の空気を作っている、体験としてすべての人がいつのまにか心地よく巻き込まれてしまっている、
そう感じられる仕事をするひとりの人。
少なからず、そういう人に会うのは、はじめてだった。

毎回東京にいくと、かならず、その人に会いたくてその店に行く。
その人の仕事ぶりを見ていると

じぶんを振り返る。
なりたい、やっていきたいものがどの方向を向いているのか
なにが欲しくて、どう実現させたいのか

どんな治療をしたくて、ひみつに来た人がどんな気持ちを持ち帰ってくれるといいか
なぜ自分がそう感じるか、思うのか。じぶんが自分に、問う。

こうして相手の姿をみて、じぶんを見つめ直す、その体験ができる。

それが自分自身にとってなんとなくいい方向にすすむ自分自身への認知につながる気がしたり、
他人だからこそ、深くまだ自分でも気がついていない自分への問いを呼び起こせたり、
すると気づけて

わたしも一お客としてじぶんがそう感じたように、ひみつをそういうことを感じられる店にしたいな。

今回で12回の連載も終わり。

あらためて読み返すと、相変わらず思考をこねくり回したりしているけれどこの12回のあいだにいろんな揺さぶられる体験をしたなぁというのは確かにあって。

毎回周家宇さんのイラストは、最初に書いたようにイラストレーションのイメージがわたしにはあって、
この12回の中で、毎回わたしの抽象的な表現が多い文章にとても近くに寄り添ってくれて、
伝えたいことへの理解がしやすくなる手立てにもなっているように思う。

文章の表現の解像度を上げてくれて、本当にどのイラストもお気に入りです。

ありがとうございました。

himitsu_April

2 – Chou Chia Yu

February,2024

Chou Chia Yu
:Maybe this is me.

2

たまにカテゴリにはめて考えてみたりすることで、気になるカテゴリを見つけたり、そこにあてはまらないじぶんが浮かび上がったり

三国志というゲームがあって
位の低い主人公がレベルを上げて、どんどん大成する、、というような内容なのだそうだ。

レベルが上がると、それぞれ4つのステータスに振り分けて、なりたい自分になっていく。
武力、知力、魅力、内政力の4つのステータスで

たとえばそれぞれに振り切ると

武力→将軍

知力→軍師

魅力→君主

内政力→内政武将

となるらしいのですがこれを現代に当てはめると

武力や知力は自己完結したおのれの技術や思考、自己研鑽に特化している能力。

魅力は、人に助けてもらったり周りが味方になってくれるような人徳の能力。

内政力も組織や人間関係の中で全体のバランスを取ったり、
平和に解決したりしようとする他者との関わりにおいて力を発揮するタイプ。

じぶんという人間がどのステータスにどのくらいの分配がなされている?
という質問を受けてとても面白かった。

自分をそのまま分析するのにも有効だし、
じぶんはどれに憧れていたり、
本当のなりたい姿を再度考えるのにもわかりやすい。自分の中で何を重要視するようになったか、
またその動機も生きてきた中で生まれるきっかけもありそうで、話が深まりそう。

また「あなたは私にとってこう見える」と広げていくと他人への見方も、
自分の他人への捉えも浮き彫りになっていろんな解釈を出せるからあたらしい発見もありそう。

この時代に生きていると考えると、どれを高めようかとか、これが足りなくて悲しいとか、
あのひとのああいうところうらやましいなとかそういうことを考えることなく、
これ以上はできない。という線引きをしっかりつけてじぶんのできることにエネルギーを注いでいたのかなと想像する。

そういう意味では選択肢が少ない分、割り切れてストレスの受ける幅少なくて済むのかもしれないけれど、
他人と「どう見える?」とか話しながらもっと多角的にメタ認知できると、
もしかしたらお互いに可能性も広がるのではないかしら、とも思う。

逆に、人ってナマモノで、量れないからこういう数値化って、
年一の健康診断みたいにじぶんで自分を見てみるのもいいかもしれない。

himitsu_April

1 – Chou Chia Yu

January,2024

Chou Chia Yu
:She says, “You should do it.”She says, “I should do it.”

1

結び目をむすぶときに思い描くのはかたち、ほどくときは紐。

嬉しかったり、楽しい気持ちになると
なんとなくカラダが浮遊しているような気がしてそれに酔うような吐き気をおぼえる。
いい吐き気。

打ちひしがれたり、悲しかったりすると
おなかの奥にズンとしぶくて重いなにかがつっかえる感覚になる。

いつも赤ずきんに出てくるオオカミの最期もこんな感じかなぁと思い出す。

これは、個人的な身体感覚だけど
あたらしいお店に移転して施術をすることで

ひとりひとりのカラダの動きやクセなどを
ふとしたときに目に留まるようになった気がする。

空間が広くなったことで、視野の中にいる相手の動作や動きを
お話ししながら目に入ってくる感じ。広角レンズみたいに。

それが、そのひとりひとりの考えていることや日々のお話をしてくれているときに
その人のカラダの中でどんな感覚なのかを考える(あくまでわたしが想像するのに)
情報、ヒントになる気がしている

それとは別なようで、なんとなく関係するようなこと
カラダとこころを二側面とよく分けるけれど、

実際に治療していると、その2つは繋がっていて連動しているし、

こころの中でも、「こう思う」という自分の意思と、無意識の部分と、
違う事象を考えたときには最初の意思からはほぼ遠い矛盾した意思が出現したり、する。

出現に気づかないままなこともある。気づかないように無意識に避けたりすることもある。

さまざまな矛盾があって、一貫性を見出す方がむつかしい。

意思に一貫性などある人は、いないのかもしれない。

いたらそれはそれで、カラダの状態はどうなんだろう。

治療をする上で、「こういう状態がいい」とか「こういう考え方がいい」というのを
よくお客さまから「そうなんですよね?きっと」と申し訳なさそうに訊かれる。

もちろん、ある程度の健康へ向けてのレジメは確立していると思う。

たとえば

「いろんな情報があるけれど、一番は自分のカラダやこころは何を求めているかに従う」とか。

でも、なんというかみんな、一所懸命に生きていていつも矛盾していて、

悩んで、落ち込んで、過去や来てもない未来を行ったり来たり迷走しながら
とてもいびつで、私はそれがうつくしいと思う。

紛れもなく、与えられた唯一の、いびつな生。

その矛盾を容認するのではなくて、いびつさを研磨するだけではなくて、
それを生じるまでの過程でできた、堅い結び目をすこしでもゆるめられたら、

一緒にほどくまでしなくとも、

「これ固すぎやしないか、、どうやって結んだんだろうね」
と近づかなくてもそばでそんなやりとりをしたい、

その中でわたしがやれることを最大限考えて提案する。

治療というものをそう捉えるようになった。

himitsu_April

12 – Chou Chia Yu

December,2023

Chou Chia Yu
:Everything about her.

12

あたらしい、よりも見たかった景色

じつは、お店を移転したのである。

この投稿月とすこし時差があるが、あまり気にせず読み進めてもらいたい。

独立して開業してから6年半ほど、前の店の、小部屋のような店でずっとやっていたのだが思い返してみると
その6年半の中でも、次の店への構想は同時進行していたように思う。

建築家さんの自邸兼事務所だった建物を買取り、一気にリフォームしたのはわずか1ヶ月くらい。

「ここをこのようにしてほしい」を明確に具体的に(嫌になるくらい細かく)お願いできたのは、
今までの年月をかけて溜めていた願望でもあったのだと、
お願いするたびに自分を客観視していた気がする。

とてもとても広い場所になったので、他にスタッフがいるのかと訊かれたりしたけれど、
これからも治療をする上でここにいる人はわたしと相手の2人だけ、と決めていて、
空間を広く、贅沢に、その時間のためだけに存在する場所にしたかったのでした。

自分の存在自体に意識を置く、または意識さえも自分以外の場所に一時的に無防備に置くことができる、
そういう場所になればいいなと思ってつくりました。

1階は、施術が終わった後にお茶を出したり、商品が並んでいる場所で、少しずつ書店もやっていこうと思っています。

2階が、施術室が2部屋あり、どのコースでも2部屋とも使用して治療します。

治療の段階に合わせて2部屋それぞれつくりました。

すべてが個人的な趣味のものということなのだけれど、元々家具やインテリアが好きなので、特にお客さまが腰掛ける椅子、照明や鏡は、「ここの、これがいい」という感じで決まっていて、それに合わせて空間を作ったという、逆算デザインです。

あたらしい店で、広くなったのもあり今まではなかなかアプローチできなかった手技や治療法もできるようにメニューも一新しました。

治療する前、お客さまのお身体の訴えや日々の出来事を話してくださるのですが、
あたらしいお店になってからは施術が終わってから、
部屋を移動してゆっくりお茶を飲みながらくつろげる空間ができたことで、
治療した後の主訴以外のその人自身から出てくるお話しがたくさんあって、
それを聞いたりお話ししながら、「こういうことをやりたかったんだよなぁ」としみじみ思っていて。

治療といっても、その場の空間のあり方というのも、含まれると改めて実感しているところです。

himitsu_April

11 – Chou Chia Yu

November,2023

Chou Chia Yu
:She is looking at her hands.

11

じぶんの意識は後天的なものもあるけれど、
からだは先天的なのだから唯一無二なのでした

鎖骨のしたの、くぼみや肋骨をあいだに手を滑らせてほぐしていくうちに、
いつの間にか、その部分に触れているわたしの揃っていたはずの人差し指と中指が、ずれていくということに
最近気づいた。

人差し指が中指の上に乗っかっているのでした。

カメやかたつむりの親子がそうやって移動するみたいに。

そういえば、以前指輪を買う時も、店員さんとお話ししながらサイズを合わせていたら
中指と薬指の幅が、人差し指と中指の幅よりも狭くないか?ということがあった。

ふだん自分の手を見ているはずなのに、気づかなかった。

この度、再検証してみると、

親指ー人差し指ー中指、薬ー小指までは広いのだが
中指ー薬指がその半分の幅しかない。両手とも同一。

最初の、カメやかたつむりの親子の再現は自然と無意識に人差し指ー中指で
やっていたわけだけれど、これだと、小指を薬指に乗っけてでもできるのでは、
と思ってやってみたらできた。

つまり、実質親指と中指と薬指の3指しか存在していないように、触れることができるということ、、!

この形態での施術の有効活用ができるかもしれない。
(指自体が長い人はそもそもみんなできる芸当なのかも)

逆に、中指と薬指のあいだの幅が狭いので、ここの血液量や関節可動域が少ないのだということ。

実際に日常生活で他にどういう影響があるか観察しなくては。

ひとりひとり、日常の過ごし方で形成されていくクセもあるけれど
元々の形状の個性も捉えながら、治療をしていきたいところです。

himitsu_April

10 – Chou Chia Yu

October,2023

Chou Chia Yu
:She is looking for where she belongs

10

フィクションとノンフィクションのはざま

”三体”という作品の著者 劉慈欣が「S Fにおけるヒトの意味合い」について
対談の中で言っていた中で

”SF小説の人物描写と伝統的な文学の人物描写の間に決定的な違いがあるとすれば、それは、

SF小説の中の人物が、国籍や民族といった政治的区分による属性をおびた個人ではなく、
人類を全体として捉えたヒトであるという点です。”

治療をする立場は、相手のパーソナリティや現在の置かれた環境、
どんな心境か、またはコンディションなどを本人から聞き(前者の属性を帯びた個人の部分)

そして直接カラダに触って、状態を診る(これが後者のヒトとしての部分)。

そのはざまに居ることができるのも、
そしてそのはざまでどこまでその先の行方を見据えて取り組むか、
というのもこの職業の醍醐味な気がする。

観察者で、想像を凝らす。

SF小説を読んでいると、そんなことがよぎる。

人の社会への生きづらさの対策のひとつに、
このSF小説の感覚を入れてみるのもいいかもしれない。

“個人”である側面と、“ヒト”である側面。

himitsu_April

9 – Chou Chia Yu

September,2023

Chou Chia Yu
:control

9

にがくて、酸っぱくて、舌に残るあたらしさ

このあいだ、自分が体験した出来事と、その時に自分がどう感じたかを、全く想定できない。
というところまでの、体験を書き留めようと思いますこの体験の中で、もっとも大事だと思われるのは、
最後の、じぶんのどう感じたかというところが想定外だった、

青天の霹靂だったという点についてだということを強調します。


あるお店で、サービスを受けている最中に
店側の事情で、終了時間が大幅に遅れることがありました。

こちらもその後すごく急いでたわけではないので、最初はしょうがない、とのんびり待っていました。
ただ、時間が経つのと、スタッフの動きや言動が比例していないことに、少しづつ苛立ちを覚えていきました。

遅くなるのはしょうがない、誰だってミスはあるとわたしが了承することと、
それに対してミスしてしまった側が、急いでる感じも申し訳なくしている態度もないことに

蔑ろにされていると感じたことによる苛立ちだったと思います。

もちろん言動には出ないようにしていたけれど、漏れてくるものがあったのでしょう。
違うスタッフがすまなそうに声をかけてくれました。

おそらくそのやりとりも、担当のスタッフさんには全て届いていたと思います。

そして、そのスタッフさんはマイペースに他のお客様と談笑していました。
わかっていてあえて談笑していると感じました。

被害妄想とかではなく、実際そのスタッフさんがわたしのその苛立ちに気づかない、
周りが見渡せない人ではないと、
短くはない付き合いの中で知っているからです。

そのあとわたしは待たされたあと、そのスタッフさんはするりとこちらに来て

さらっと、完成度の高いものに仕上げてくれました。

帰りの見送りも「またね」とにっこり笑顔で手を振っていました。
この時には無性にわたしは、じぶんに、恥ずかしくなっていました。謝ろうかと思ったくらいに。

呆然と帰り道を歩き、じぶんの湧き出てくる恥ずかしさは一体なんなのか、途方に暮れ、そして混乱していました。
なんども記憶を巻き戻して、考えました。

このエピソードを実際人に話すと、怒ったり、憤慨したり、
「そんな思いをするならもう行かない」という人もいました。

確かに、そこの部分を切り取ると、サービスに生じる支払いに見合うサービスの質だったかといえば、それはNOだと思います。
わたしもだからこそ、途中まで怒っていました。その行動は、よくないと、はっきり今もこれからも思います。

ただそのことに対する言及なのではなく、
「現状は変わらないけれど、せめて急ぐことや謝罪の行動を示してほしい」という湧き出たわたしの要求(パス)が、
受け取られることはがなかったことによって、その場にその「~すべき」というわたしの欲求だけが浮き彫りになりました。

浮いて宙ぶらりんになったじぶんのその欲求そのものを再度自分で眺める状況になったということが

大事なところで。

まず衝撃でした。

正直そのスタッフがそういう行動をとった云々よりも、その結果その時にわたしが相手に対する強い欲求が
部屋の中で花火をしたら、火花やすすや煙が出るみたいに、それが目に見える、
手に取れるんじゃないかと錯覚するほど鮮明に放っていることを自覚したわけです。

置かれている状況やじぶんの立場、常識的なことなどはすっかり頭から抜け落ちて、

「いまの、このじぶんが嫌だ」と感じたわけです。

完全に、わたしが「わたし」に対する「嫌」。

「じぶんがされて嫌だと思うことは、人にはしない」というのはベースにありますが(大前提〕
「じぶんが嫌だと思うことされたときに、じぶんがそれを踏まえてどう振る舞うか」のところ。
「されたこと」や「してきた人」に対してではなく、
「嫌な思いをした自分がそのあとどういうふうに表現するか」ということを考えたいと感じたのでした。

これを深めていくと、

好き:嫌い、気持ち良い:悪いなどのさまざまな対比した感情の度合いと
それに基づいた選択への意思はシーソーみたいには比例しないのかもしれないという仮説も
その塩梅って、じぶん自身も、ましては他人のことだとよけいにわからないよね!

ということにもつながるし
そういう皆目見当がつかないことを目の当たりにする時って、その「わからない」の局面にぶち当たった時。
頭を強く打って、目がチカチカしたりする、あの感じ。

それが、とても、なんともいえなく知れた。

himitsu_April

8 – Chou Chia Yu

August,2023

Chou Chia Yu
:Let’s take a picture!

8

さいきん解像度が低いほうが記憶には鮮明にのこる(気がしている)

一人暮らしをしていたころ、初めてパソコンを買った。

MacBookだった。

性能というよりもデザインで選んだ。
もちろん気に入っていたのだが、途中でワープロが無性に使いたくなった。
ちょうど祖父のワープロをもらって、家まで運んだ。大きくてずっしり重かったのを憶えている。

スマホを買い始めた時もそういえば、そう。
当時WILLCOMという小さな小型の携帯電話にしたくて、結局そちらに変えた。
手に収まる小さなリモコンのサイズで、電話とメールしかできなかった。

何年か前、じぶんの車を手放した時に
つなぎとして、家族の車を一時乗っていた。

ワーゲンの素敵な車で、乗り心地もとても良かった。
そのあと、わたしが選んだあたらしいじぶんの車のオーディオ機能は
唯一ラジオだけで、それがなんだか嬉しかった。

あたらしいものが好きだ。
刺激されたり、感動したりする。

洗練されていたり、改良されていたり、知恵が働いていたり、
形になるまでの過程にさまざまな背景があると思い馳せたりできる。

そして、古いものがとくべつ好きなのでも、ない。

おそらく、「あたらしい」を生み出す過程で、必要な「便利」だけが残り
切り捨てられた「不便」と思われるものの中に、単に個人的に惹かれるものがあるのだろうと思う。

ずっと変わらないものが好きなわけでもない。

不変より可変の方がずっと、好き。

でも変わっていきながらも、いつでも振り向いて、置いていったものを遠くから眺めたり
もう一度触れにいったりするのも、じぶんの中で時間軸や時空が動くようで好き。
それは思い出ではなくて、記憶のままにしておく、みたいなこと、

そうすると慈しむのではなくて、今もずっと昔も、現在の場所に一緒に座っていられる。

ずっと、記憶も不完全で保つことができる気がする、そうやって思っている現在のじぶん自身も含めて。

ワープロは、ひとつひとつのキーが重たくて、画質もあんまりで角度によっては見えづらい。

画面の字そのものに滑らかさはないし、起動するのも時間がかかったり
WILLCOMの携帯電話は、サイズも小さいしボタンも固くてよく打ち間違える。

車のラジオは、なかなか周波数が合わせづらいし、なぜか日に日にズレていく。
その「不便」が全てクリアされてしまうとしたら、とてもかなしい。

そういうことって、みなさんの中にもあるかな。

himitsu_April

7 – Chou Chia Yu

July,2023

Chou Chia Yu
:She is considering how to respond.

7

息をひそめることで、呼吸を感じる
みたいな矛盾が、目からウロコですきみたい

前回のつづき。

最近そう考えるのだけど、ふと気づくとこのコラムを始めたときに、
考えていることとまた違う考え方になっているのだなとも思う。
どういうことかというと、
コラムは言葉にならない事象や思念を言語化することを試みる私自身の問いかけの場だったわけなのだけれど、
きっとそれは目に見えないじぶん以外の外のものを自分の中に入れ込んで
そこではじめて言葉という目にみえる形として出力し表現する(可視化)という目的だったと思う。

それを実践することで、
じぶんの水面下の無意識になっていることを地上に引き上げる、そして言葉にするのに必要な観察が可能になると思う。

そこから今は、その観察したものを、言葉というものにはめないことによって、
違う手段で考えることができないかを見つける、という段階なのだと思う。

それは巡り巡って、今までの順序がないと起こり得ないような気がしているのでした。

そう考察すると、矛盾なようなだけど模索を繰り返してきたことによって、ハッとさせる新たな気づきが
じんわり自分の中に生まれる歓喜と興奮。

最近、書店で「FEMINIST FIGHT CLUB」という本を見かけた。

表紙を眺めるとそこには目立つピンク色のセリフに“職場の女性差別”サバイバルマニュアル 
と書かれていて、小さく「あなたは正しい!」というメッセージのイラストが描かれていた。

私は手に取った際、本を開かずにただ持ったまま少しの時間、動かなかったと思う。

元々人権やフェミニズムについてもっと知りたいという欲はあるし、
自分も社会での女性の立場やその問題をより掘り下げをしていくことは必要だと考えている。

ただ、なんとなく「あなたは正しい!」という表紙に違和感があったのだ。

その本を”女性としてのわたし”が「あなたは正しい!」と書いてある本を開くことに躊躇した。

だから、じぶんがこの本を開く動機を、自分の中で探って、
じぶんなりのこの本を開く資格(覚悟というべきか)が見つかるまで簡単に開いてはいけない気がしたのです。

おそらく、不審な挙動の客に見えたとは思いますが、、
数分間、本を持ったままその場で静止していて

ようやく開ける準備ができた。

わたしは自分の中にあるミソジニストを見つけるために、この本を読む必要がある。

わたしの中の隠れた正しくない部分を探すためにこの本を開こう、と。

数分考えてそれが今のじぶんの中で、納得のいく動機だとたどり着いたのでした。

こういうことがじぶんの日常の中で度々起こるようになったのも、
言語化せずにどうしたらいいかという前回からの問いがそうさせてくれている

そんな気がしています。

himitsu_April

6 – Chou Chia Yu

June,2023

Chou Chia Yu
:She is considering how to respond.

6

じぶんの脳みそのそれぞれの役割をドレミファソラシドの音階にたとえると、きっとトレモロばかりな気がする

「カラダのここが痛いんです、ずっと」という訴えをするお客さまに
「ずっと?」と訊き返す。
「その部分が痛いと絶え間なく、感じている?」

そうやって
その痛みという訴えから、原因を分析したり、痛みの強弱を測ろうとする質問を投げかけると
「そういえば仕事中は痛くないかも」とか「寝ている時は感じない」とか
しまいには「あんまり憶えてない」とか。

最初に言っていた「ずっと」は意外に、「持続性、連続性のある」意味ではなかったりする。

言葉自体や表現のニュアンスが、そうやって話す側、聞く側によって伸びちぢみするのと、
本来のことばの意味とはかけ離れているけれど、その言葉として表現したという事実自体に、
本人の無意識の意識が組み込まれているところ、そこに親しみと面白さを感じます。

一方で
ことばの意味に忠実になりすぎると、
話の内容自体を正確に伝えることに執着してしまう、と同時に、
言葉の受け取った相手の気持ちへの配慮の面が薄くなることや
相手の話を聞く際に、その話の中身に共感したり、疑問が立ち上ったりして、自分の頭でその話または吟味したりする、
そしてそのように立ち昇る感情と、その話に対する客観性のなさの比率バランスなどを感じたりもするから難しい。

第三者という視点だからこそ生まれるアイロニーや意味のずれはずれ合う意味をともに見渡す地点があって、
はじめてその機能を発揮する。

つまり、じぶんの内側に会話全体を俯瞰する者がいなければならない、と思う。

第三者の視点になるために、まず自分自身の「今、ここ」意識と切り離さないといけない
そのために、自分の客観的感覚に重きを置いて、観察すること
そのためには、自分は言語感覚に比率が傾いているから、
まずそこを逸脱しなくてはいけないと思っている。

つまりは、
思考は凝らし、いかに言語化すること、発語することをせずに、
どうじぶんが、人と対話していくか、というところ。

Posts navigation

Older posts

© 2026HIMITSU.LLC

x