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ひみ つ

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Ice cream

最近気がついたのですけど、自分の、アイスが溶けることへの強迫観念がすごい。
凍ったままの状態であることがアイスの定義であって、溶けかけたアイスなどそれはもうアイスではない、という真顔になって独り言を部屋の角に向かってボソリと唱えるくらい、強い気持ちがあったのでした。

お店でアイスを食べるときに、
入っている器やスプーンが冷えて出てきた時は、導入として本当に感動するし、
ひと口ずつ食べるたびに口のなかの体温でスプーンがすぐぬるくなることが、至極残念になったりする(どんどん食べると口のなかも冷えるのでこれまた安心する)

正直、アイスに関しては、アイスそのものを味わうよりも
いかに冷えた状態を維持させながら食べるか(体温36°以上の恒温動物と氷点下の結晶体との共闘)という方がわたくしにとっては近いものでした。

だから、隣で溶けかけているアイス(瀕死)を見ると、「と、とと溶けかけているよ?」とうわずった動揺の声かけをしたり、たまに「死にかけているよ?」と言い間違えることもある(後から気づく)

わたくしの周りの人の話を聞くと、溶けかけたくらいがいいという人も多い。
かの、ハーゲンダッツのCMもスプーンで掬うシーンを見ると、少し溶けているうような気がする。ということは、きっとわたくしは少数派なのでしょう。

しかしわたしが今回疑問に思うことは、
それだけ強い”〜ならぬ”感があるというのにも関わらず、
そのアイス信条があったことに気が付いたのが、至って最近ということだ。

アイス談義なるものを今までの人生、人と膝を突き合わせてしたことはなかったし、
なんなら、「溶けかけているよ」と声をかけて、「溶けかけが好きなんだ」と言われ、「あぁそうなんだ」と前のめりだった姿勢を「人それぞれなんだなぁ」とうなづきながら後退して見せていたわけなんだけれども、
その経過の中で、価値観を学び、うなづき後退しながらも、自分の目線は次第に溶けて液体と化していく相手のアイスを片時も離さないのであった。
そのこと自体に、わたくしは気づかなかったのでありました。

そういうことって、ありますよね?

強く思っていることであっても、それが本当に自分の確立した行動と捉える、判断するとは限らない、みたいなこと。
「信念=行動」「やれないってことは、そうしたいという気持ちが足りない」という考え方だとあまりに、短絡的でどうにも視界が狭くて、くるしい。
「溶けることが嫌」という強迫観念に「無自覚」という気づき。
これは、そのくるしい結論の出し方に別の道を示してくれていると思っています。

今後もわたしの口のなかは、寒くてつらいのだけど、
それでもアイスはどうにかして溶けないまま食べようと試みるでしょう。
きっと、他の溶けてるアイスを見るたびに、気になって目は見開くかもしれないけど、
その度にこの強迫観念に長年気が付かなかったという矛盾さを思い出して、すこしあたたかい気持ちになると思われます。

「自分ひとりの部屋」

「ブックカバーをおかけしますか」

と訊かれて、すぐに答えられた試しがない。
その一瞬の間、その逡巡についてのこと

東京に滞在するときは
現地の本屋で質量のかるい本を買って
ひとりで夜食事する、ダラダラ読む。呑む。

いまでも憶えているのが
ある店で、ブックカバーを断ったこの本を読んでいたら店員の男性が、表紙を見るなり「あ、」と言って
にっこり「ウルフ」
つづけて「、考えますよね」
と言って空いたグラスに水を注いでくれました。

「あ、ウルフ、考えますよね」
わたしの半径3m周辺にはヴァージニア・ウルフを知っている人もいなければ、気さくにウルフと呼ぶ人もおりませんし、わたしも彼女について話すことがないのでそんな敬称で呼んだこともありません。

しかも、「考えさせられます」ではなく「考えます」と言ったのだ、
日頃、その2つの言葉にはすこし離れた距離がある(と思っている)

後者、いわば彼の発言は
読む行為に対してじぶんの意欲が前のめりな感じがする。
そして、わたしはその発言で
詰まっていた鼻が通ったように息ができました。

そんなに年齢差がないであろう彼がヴァージニア・ウルフを熟読されているとは、、!

ヴァージニア・ウルフと二人三脚してたら、急にバトン渡すメンバーが出現して、3人でぐるぐる走っている感覚です。

なぜこんなに感銘を受けているかというのは
ヴァージニア・ウルフの本を読んだらわかります。

 

彼女は、よく倫理観、フェミニズム批評などの本で題材にされやすく、実際に彼女の本では「家庭の天使」という表現で、家庭内で妻や母の役割を果たす女性を褒め称える言葉であると同時に、女性が自分で考えて行動をしようとする時にのしかかってくる社会的抑圧を常に感じさせます。

わたしはその店員、彼のことを
生物学的に男性(そう見えた)と捉え、
もしかしたら実際のところは
その主観も見当違いなのかもしれませんが、

ヴァージニア・ウルフは
男性中心主義の時代背景と、それによって女性たちの抑圧された社会的立場について自分の感じたままに書かれているし、
そして”考えさせられる”という受動的なスタンスより踏み込んだ、
“考える”という主体性、
店員の彼が、
生物学的に男性という性で生まれてきた人(であるとすると)
自分の性が歩んできた時代背景を知る、
そしてそれが人道的なこととは言えないと訴る女性の葛藤について知り、そして考える。

もちろん、男性には男性なりの、女性たちに対する葛藤や抑圧されることへの不満もあるでしょう。(日頃から)

そもそも、性別への疑問もたくさん浮き彫りになりつつある現代。
しかし男女という社会的立場や時代は今よりももっと
そもそも女性たちの方が圧倒的に自分の考えを述べる、述べてもいいという自由が、選択がなかった、という男性中心主義の痛さ(客観的)と、
それによる女性たちの痛さ(精神的、物理的)を
同性みずから読んで考えるのだから
彼の柔軟な知性と勇気(なんだか上からの物言いにきこえるかもしれないが、男性中心主義という歴史的恥とそれに対する女性の犠牲に、同性として自ら向き合うのだからそれは勇気以外になんと云おう)、
しいては都会の人口の多さと
そしてわたくしの未熟な固定概念の割れよう。

いろんな人がいるね、、、
と一言で済ませたくない稀有なきっかけ。
わたしにとってブックカバーをかけなかったことは
うれしい誤算でありました。

ということを
毎回ブックカバーをかけるか否かという問いと同時に
必ず思い出しては
どうしようかと迷うので
店員さんはすこし目を細めるか、
見開いてわたしの顔を凝視するかのどちらかになる。


ブックカバーをかける意味や意図もあるように、
かけないことで得られる体験もあるみたいです

自分ひとりの部屋  ヴァージニア ウルフ (著)
出版社 ‏ : ‎ 平凡社 (2015/8/25)
発売日 ‏ : ‎ 2015/8/25
言語 ‏ : ‎ 日本語
文庫 ‏ : ‎ 269ページ

「限界から始まる」

今回は往復書簡が好きだという話と、
好きだという往復書簡の話です。

 

おそらく、往復書簡を読むのが好きだと思うきっかけは
むかしクウネルという本(永遠のバイブル、それについてはまた追って)の
江國香織さんと妹の江國晴子さんの往復書簡の連載です。

なにが好きかというと、2人の手紙のやりとりを読むと
文章という構成を自分で作るだけでもその人そのもののかたちが出てくるのに、
その文章のやりとりでより関係性という新たなカタチがもこもこと立ち込めてきて、
それを毎回感じては、面白いと思っていたのです。

手紙そのものを掲載していたから、
直筆や封筒、そこに貼るシールなども本人たちが選んでいて、細やかなところもたのしかったと記憶しています。
姉妹なのだから、やはりお互いどんな人かわかっていて話題や認識も共通するものが多いし、隣同士で話しかけるようなやりとりだったけれど
大体ほかの往復書簡や対談記事は、
ある程度テーマがあってそれについて個々の話をしていく。


直接目の前の人とお話しするライブ感と比べると
それと同じくらい、自分から出力した文字の、言葉の、受け取り手へ渡る時差のある交換も、
どちらも直列回路、そしてそこから読み取りに並列回路でありもして、面白い。

というわけで、どんなジャンルでも往復書簡や対談なども
会話のやりとりを記したものは、つい手に取ってしまうわけでした。

 

今回は、こちら。
今までの読んだ往復書簡の中で、ダントツで
おのれの価値観に五寸釘を差し込んでいく感覚になった本です。
痛くないけれど、血は出ています。


もうただただ、カラカラになった喉に入れる飲みもの如く、
然りとて、読めば読むほど、喉がカラカラになります。
この本を読了したその一瞬に、わたしはドライアイになりました。
目薬を何度か差しました。


女とは、エロスとは、母と娘とは、恋愛とは、結婚とは
承認欲求とは、能力とは、仕事とは、自立とは
連帯とは、フェミニズムとは、自由とは、男とは


率直で、真摯で、大胆に解体されていますが、
おふたりとも相手への心の投げかけの洗練、繊細さ。
心のヒダに喩えると、
それはもう度重なる可憐な刺繍とレースを纏ったヒダ感です。


五寸釘が刺さったままで、血は出し、
喉や眼はカラカラになりますが、この本に出会えてよかった。

真のポジティブは、
地の底(行き着いた不条理で絶望)で考え抜き、見い出されるということ、
それを信じることは間違っていなかったと、
まさに希望を感じる一冊でした。

「限界から始まる」
幻冬舎
著 上野千鶴子 鈴木涼美

apartamento

思い切ってスペインから定期購読をしている。
さまざまな人のお家を紹介している雑誌なのだが、
これが、本当に脱帽、風に吹かれて飛んでく瞬間くらい掻っ攫わて
雑誌のレイアウトも、字体も、人選も。
もう何処もかしこも、すてきです。

 

全然意味がわからないインテリアだったり
(意味を求めること自体に疑問符を持たせてくれる)
独創的すぎてこれ住むのに不自由しそう、、パンク!みたいな
底抜けな感性をいつも眺めては、たのしい。
生きてきているのだな、
と感じることのできる、その人たちの息づかいそのものの部屋をいつも紹介していて
どれも本当にかっこいい。


整っていて落ち着いていて、スンとしている佇まいできれいなものもすてきですが、
まわりの雑誌を見渡しても、”きれいすぎていたり、整いすぎていて”
しかもこういうものがみんな好きだよね、みたいなデフォルト加工ばかり
目立っている感じがして、
こういう風にすればなんとなくおしゃれなかんじに見える、という
個々の培ってきたセンスではなくテンプレートのテクニックが
先行しているように感じるのは。


もちろん、どの雑誌もすてきで必ず見るし、
雑誌を作ること自体作り手への尊敬は揺るぎないものなのだけれど、
なんとなく時代の流れみたいなもので
そういうなんとも形容しがたく、
しかし自分の中に確かにある違和感みたいなものを
スッと拭ってくれたのが、この雑誌。

apartamento

2008年にスペイン・バルセロナで創刊
ニューヨーク、ベルリン、そしてミラノにもオフィスを設け、グローバルに制作。

白釉ポット 岩田圭介

フォルムよ、、、


陶芸家岩田圭介さんの作品で、もうかれこれ2年は探し続けていた。

基本個展に行かないと手に入らない代物で、その個展もなかなかタイミングよく行けない。
しかもこの、なかなかの可愛らしさ、常に品切れであった。

というわけで、執念の経過をたどり、ついに巡り合えました。
長かった、、

いつも、なにかしら、探している。

 


これでも大きいサイズなのですが、おかわりの分までの容量はないため
だいじに両手で抱えて、またお湯を足しにいくのである。
正直、お湯を入れるとポット自体熱いのだが、
割れたらかなしいなんてもんじゃないので、我慢してしっかり抱えて運ぶ。
もうお茶を飲みたいというより、このポットをポットらしく愛でる行為に、癒されている。

岩田 圭介
1954年 福岡県に生まれる
1977年 日本大学芸術学部彫刻家卒業
1978年 多治見市工業高校窯業専攻科卒業
1983年 福岡にて開窯

美術手帖 『ケアの思想とアート』

この本はかならず読むことは決まっているのだけど
(書店で一目見て)
もちろん買うのだけど(手にとって会計に持っていき)
でも、これは、相当のエネルギーを要しながら、腰を据えて読むのだから(今すぐ、は、読めぬ(読みたいという気持ちはあるが、今はまだその時ではない)

ということが度々、ある。美術手帖の2022.2月号「ケアの思想とアート」がそれなのであった。そんな気持ちで発売した2月に購入し、1度読み腰(読むのに腰を据えるという造語、いま作った)したのは5月くらい。3ヶ月も寝かせておった。

そして、読み終わったのだが、次は、読んだわたくしの中で、考えることを寝かせねばならないという工程。
コインランドリーで洗濯物を回しているぐるぐるをじっとなにもせず見つめるあの止まった時間と同じ感覚。

なぜこんなに周りくどい過程を説明するかというと、わたくしにとって
「ケア」「アート」というテーマは、答えのない入り口で、しかも「思想」という、果てしなく広がる様々な人々の考えの出口を、これまた結び目にして、その中を泳ぐかんじ、なのだ。
答えはない、ということは最初から決まっていることで、でもその中を泳ぎながら、自分で気になったり引っかかったことを言葉で体験する、それをそのままに寝かせておく。

この一冊で、より深い読み腰になったのは、医師の稲葉俊朗さん×キュレーターの田中みゆきさんによる”アートにみるケア、ケアにみる創造性”というテーマの対談。
その終わりの方のお話に、正直ちょっぴり泣いた。

稲葉 ケアの視点から考えると、作品はつくり手にとっても、客観的な視点と距離感を獲得するプロセスが重要だと思います。対話を通じて精神面のケアを行う「オープンダイアローグ」という手法の中に「リフレティング」というプロセスがあります。まずは当事者を含め、複数人で車座になり対話する。その後当事者がその輪から抜け、自分のことについて話されている場を、劇場のように客観視する。
人がフィクションを求めることにも共通しますが人間は主観的になりすぎると、負の感情のループから出られなくなって苦しみにつながります。
自分の世界を客観的に見る視点を獲得すると、そこから脱することができるんです。
ケア的要素を持つ美術作品は、こういった治癒のプロセスにも通じる。
ソフィ・カルの《限局性激痛》も、作家自身の悲しみや苦しみの主観的世界と、客観的視点の往復運動のなかで生まれているからこそ、見る人のこともケアしうるのだと思います。

田中 現象学で言う間主観性、つまり他者と主観を共有することによって共同的に成立する主観の在り方という概念を思い出しました。
作家にとっての必然から生まれたものを他者が感受すること自体が、作品を通したケアでもある。必ずしも同じ経験をしなかったとしても、そこに自分を置いて考えるきっかけをつくることもできる。その意味でアートは「当事者じゃないとわからない」と分けられてきた問題に想像力を広げる可能性をもっているのでないかとも思うんです。

:::::::::::::::::::

もうひとつのコラムにも書いた感覚のはなしで
わたくしのおもな仕事は、お客様の治療なのだけれど、その過程で、ひとりの人間の中には肉体や精神と、まとめてしまうことの手軽さには到底収まりきれないくらいの、本人の意識の層のようなものあると感じる。
その層は、本人のいろんな角度から生えているかんじで、カラダを物質的に良くしていくだけではどこかでかならず立ち行かなくなる。のがわかる。
その逆に、いろんな角度から、どこからでもアプローチはできる。
そうやって、自分の中からも外からも場所を変えて見ることができる。し、それを目指すべく治療をする。
全貌は見えなくとも、そのカケラの形は手にとったり、眺めたりすることができる。そしてその作業をふたりで繰り返す。

それがおふたりの言っていた主観的世界と、客観的視点の往復運動であり、間主観性という考え方は近いのではないか、
そうだとしたら、それに携わっていて、一番近くでそのプロセスを客観的に感受できるわたくしにとってもそれは、わたくしのケアを体験していることでもあるのだと、

美術手帖の2022.2月号「ケアの思想とアート」

ASIN ‏ : ‎ B09MCGZQS9
出版社 ‏ : ‎ 美術出版社 (2022/1/7)
発売日 ‏ : ‎ 2022/1/7
言語 ‏ : ‎ 日本語
UNSPSC-Code ‏ : ‎ 55101500

Ballet Henry Leutwyler

いつも舞台裏や袖の場所にときめく。
写真集やドキュメンタリーなどを観ていてもその現場を見ると胸が高鳴るかんじがする。
特に袖の場所にいる人々は、いろんな感情の渦と緊張感との葛藤と、ある意味人格の切り替えの境目みたいなものができる場所なのではないかと思う。
そのピンと張り詰めた空気と、戻ってくる場所としての安心できる緩み、もしくはまだその緩みが解けていない中で、それでもなにか終えた者が始まる前とは違うものを纏って帰る場所。

ひとつの場所で人が行き来する中で、こんなにも行く人と帰ってくる人の温度が違う場所はないのではないかと推察する一方で、
袖から向かう場所への気持ちをそのまま同じだけ持って帰ってきたなら、
それは“袖“という場所の意味はなんなのだろうとも思うけれど、
その境界線さえもどこで引くかわからなくなる、その意識の景色も知りたいとも思う。

たしか、なにかの発表で、
始まりと終わりの時の暗幕の切り替えをする役をしたことがある。
赤いベルベットの、重くてホコリっぽいカーテンを左右にタイミングを合わせて開けたり閉じたりするのだけなのだが、これがたまらなく好きだった。
これからどんな素敵なステージになるっていったって、このカーテンを開けなくてははじまらないのだ。同様に、はじまってしまったらいつか終わる時にも閉じなければ、終われない。
そう思うと、そのドアのカギを持っている、そして世界の切り替えの場所にいるという高揚感。
(もちろん、勝手にそう思っているだけできちんと厳密に開け閉めをしなければならない、勿論。)

その時のあの場面展開の起動スイッチの感覚を感じたくて
どんな映像でも、写真でも、
つい舞台よりも舞台裏の方が気になってしまう。

この“Ballet”という写真集は、ずっとほしくてアメリカから取り寄せた。
たしかいつぞやの自分へのクリスマスプレゼントにした。
華やかで同時にさびしくも過酷で、なによりうつくしい。
こういう本は、その時映された人々の記録であり、生きてきたという歴史として肌身を感じる(そんな言葉あるのかな、なかったら造語として解釈求ム)ので、より丁重に、大切にしなくてはいけない気がしてくる、
この本のページをめくるとき、いつも”袖”にいる暗幕のカーテンを握る記憶がよみがえる。

Ballet   Henry Leutwyler

hardcover
408 pages
304 x 231 mm
color, black and white
2015

01

ハワイにtownというオーガニック食材を使ったレストランがあって
ここのメニューのおいしさも素晴らしかったのだけど、なにより
メニュー表の表示がとても素敵だと記憶している。

その料理の食材がすべて羅列されているだけなのだった。
料理の名前ではなく、その原材料にこだわっているのも窺える、、、
とかは正直二の次で、
なによりその食材や記載されている調味料を見て、どんな料理なのかを想像するという作業がすでに頼む前からワクワクした。

そういう相手に委ねるギリギリのところのバランスと、
そのままでいることへの、潔さがすきだ。

塩川いづみ作品集を見た時にそのことを思い出した。

IZUMI SHIOKAWA PEN,PENCIL, PEOPLE,ANIMALS AND PLANTS

ハワイにtownというオーガニック食材を使ったレストランがあって
ここのメニューのおいしさも素晴らしかったのだけど、なにより
メニュー表の表示がとても素敵だと記憶している。

その料理の食材がすべて羅列されているだけなのだった。
料理の名前ではなく、その原材料にこだわっているのも窺える、、、
とかは正直二の次で、
なによりその食材や記載されている調味料を見て、どんな料理なのかを想像するという作業がすでに頼む前からワクワクした。

そういう相手に委ねるギリギリのところのバランスと、
そのままでいることへの、潔さがすきだ。

塩川いづみ作品集を見た時にそのことを思い出した。

原画展には行けなかったけれど、最後のページご本人の直筆サインが記されていて
それが、持ち物にサインするみたいにフルネームそのまま横書きで
名前なのに文字じゃないみたいで、飾り気がないのに、その文字はそこに
きちんと飾ってあられた。

IZUMI SHIOKAWA PEN,PENCIL, PEOPLE,ANIMALS AND PLANTS

出版社 ‏ : ‎ 玄光社 (2022/5/30)
発売日 ‏ : ‎ 2022/5/30
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本(ソフトカバー) ‏ : ‎ 224ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4768315682
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4768315682
寸法 ‏ : ‎ 14.8 x 1.8 x 21 cm
UNSPSC-Code ‏ : ‎ 55101500

© 2026HIMITSU.LLC

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